純潔 童貞 ヒッポリュトスとパイドラー

http://www5a.biglobe.ne.jp/~kurina/book/lit/lit2.html
http://toukaen.fem.jp/syosetu/girisia/2-1.html
物語のあらすじはいろんなところにあるでの一例だけ。

理想の観念の女性、理念の恋愛、アルテミスと、猥雑、残酷、利己、暴力的にして不純なる欲情の女神、アプロディーテーの相克。で、現実の「恋愛」や「情欲」、「不純なるもの」を軽蔑してアルテミスにすべてをささげるのが「童貞」ヒッポリュトス。

具体的にどう対応するかとかは特に考えてないけれど、非モテとか純潔とかの問題はギリシアの昔からあったんだなあ、という点で、この話を読み返してみるのは面白いんじゃないだろうか。それで、パイドラーに同情的かどうかっていうのは、かなり傾向が分かれてくるところなんじゃないかと思う。

個人的にはアプロディーテーの理不尽さは結構好きだ。

あと、テーセウスって勝手だよなあ。

余計なことを言う召使のキャラクターも面白い。悲劇とはまさしくこういう善意から起動することが多い、っていうのは、むしろ振り返って慄然とするというか、善意って覚悟がいるよなあみたいな。

しかし、神話学的に面白いのは、さかのぼれば、アルテミスとアプロディーテーは同じ一人の女神、イシスにしてイナンナ、イシュタルなわけです。だから、アルテミスがアプロディーテーを妨げない(妨げられない)のも、その辺に本質的な理由があるのかもしれない。

あとまあ、悲劇の型としてはエロゲ風というか義母ですよ、義母。ここでヒッポリュトスが過剰な嫌悪をあらわにするのは、意馬心猿がなきにしもあらずだからこそ、それを抑えるため、というところもあり、つまり禁忌への恐怖というのもあったに違いない。

系譜的同一性と内容的同一性 家族的類似性

万世一系の議論でY染色体についての具体的なことには立ち入らなかったけれども、これは「性の決定以外には形質を発現させる遺伝子をほとんどふくまず」、「相対的にほかよりも変異の激しい」染色体なので、そこに内容的意味や連続性を見ようとするのに科学的な意味はないといっていい。ここで露呈しているのは、系譜的同一性と内容的同一性の混同だ。

ある経路をたどって行ったとき、その経路に属するものを、その経路に属するという理由でまとめたものが、系譜的同一性。

他方で、それに属するものに内容的に共有されるものがあるがゆえにまとめられるものが内容的同一性。

ひとはつねに、系譜的同一性に内容的同一性を幻想する傾向を持つ。つまり、ある系譜的同一性が存在したときに、そこからさかのぼって、その「系」に属するものには、少なくともひとつの「普遍・不変要素」があったはずである。そしてその何かこそが、その同一性の「本質・根拠」である、とみなしたがる。しかしこの「形而上学的」推論は、一般論としては間違っている。

この誤謬の原因は何かというと、「事」の次元にしかない系譜的同一性の、「現実的依代」がほしくなる、あるいは錯覚するという傾向がある、ということである。これは物事の存在のタイプの混同だ。たとえば犬というクラスの存在と、個々の具体的な犬の存在では、存在のタイプが違う。これを混同すると、吉田戦車の有名な不条理四コマのように、「そういうんじゃなくて『犬』そのものをください」ということになる。

系譜的同一性は家族的類似性でもあり(いや家族的類似性の場合は局所的には内容的同一性が成り立つから、そうですらないこともありうる? )、遷移的な「同一」性でもある。系譜的・遷移的なグルーピングというのは、要素にとって外的なものなのだが、われわれはなぜか要素にとって内的な、つまり内容的同一性があるはずであるとかたくなに思い込む。この「本質主義的投影」の事例は多く、根が深い。

ブックバトン

http://mijulog.blog3.fc2.com/blog-entry-356.html から。

持っている本の冊数

分かりません。

今読みかけの本 or 読もうと思っている本

『「いのち」とはなにか』柳澤桂子
非常によくできた生物学の入門書。
ネコソギラジカル 下 青色サヴァン戯言遣い西尾維新
涼宮ハルヒの陰謀谷川流

最後に買った本(既読、未読問わず)

絶対可憐チルドレン』1・2巻 椎名高志

特別な思い入れのある本、心に残っている本5冊(まで)

その時点ごとに全然違う。オールタイムベストというのはない。

そういえば余談だけど尾崎翠はぼくもすごく好きだ。

次にまわす人5人まで

友達がいないのでここで終わりです。実際思いつかない。

七人の侍

兵農分離ってことだよなあ。とみてて思っていた。これ、中国とか、兵農分離が進まなかった国なら、農民自身が武装化するんだよな。で、その延長上に三国志とかの英雄がいる。あとリアルに描くと本当はもっと村内政治に足を引っ張られるはず。現代でリメイクしたらきっとロマンス方面にもっとフォーカスが当たるだろうな。武士というのが、何か、ギリシア神話で言うヘーロース、半神の英雄みたいな、一般人と越えられない壁のあるもののように描かれているのが面白い。

自然主義的誤謬

http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/ep_nature.html
である、から、であるべき、に何の根拠もなく移行して、そのことに自身気がついていない人ってけっこう多い。大勢はそちらに向かっているとか、ほうっておけばそうなる、ということを、何かを(倫理的・価値的に)正当化する根拠として持ち出すのは間違いだということを、ひとはもっと意識するべきだと思う。

再追記 12/12 任意の天皇

http://d.hatena.ne.jp/leo/20051211

一点目。

「私の言った内容を私に向かって繰り返し説明なさっていた」という点ですが、http://d.hatena.ne.jp/leo/20051112/p2 で、私の二つの文章が矛盾しているとおっしゃっています。

以下の2つの引用部分は、それぞれ前提が矛盾しています。

天皇が代々男系継承を(注記。文化的な意味ではなくて生物学的な意味で)名目どおり、事実行ってきた、と、歴史学的に大いに疑わしい点をいちおう抜きにして仮定すれば、「神武天皇から代々」まで「任意の人」がさかのぼる必要はありません。天皇のうち誰かが男系の祖先にいさえすればいいのです。

ぼくとしては、「任意の天皇のうちの誰かに、父系でさかのぼればたどり着く」人がそんなに少ないとは到底思えません。(引用A)

この部分では「父系をそんなに(古代まで)遡らないでも良い」と述べておられますが

人口学的にさかのぼればさか上るほど、祖先が共通になっていく、ということは、いいかえれば、現に今存在する人同士が先祖が共通である確率は、時代をさかのぼるほど高い、ということでしょう。(引用B)

ここでは「相当父系を遡ったとしたら」という話をされています。

しかし、遡るのは神武天皇まで、です。一貫しています。それ以外の話はしてません。この二つは矛盾していません。

「任意の天皇のうちの誰かに、父系でさかのぼればたどり着く」人がそんなに少ないとは到底思えません。

というのは、神武天皇まで遡れば、というのと同じことなんです。女性天皇の男系子孫のことは失念していたのですが、その点を除けば、「神武天皇まで父系で遡る」ということと、「任意の天皇のうちの誰かに、父系で遡ればたどり着く」というのは、同じことの言い換えです。後者が、任意の天皇にたどり着いた時点で遡るのを辞めて、神武天皇まで遡ることを確認しないのは、単に天皇家は男系子孫であるということから、わざわざ検証しなくても確実だからです。

私は、神武天皇以降の特定の代の天皇Y染色体がたくさん拡散しているとか、そのことが、その天皇がどれくらい昔かをとわずにいえる、といった主張はしたことはありません。「任意の天皇に遡る」というのは、そのひとが神武天皇まで遡ることの「確認手続き」の問題なのです。

別の言い方をします。「任意の天皇まで男系で遡れる」というのはその特定の個人についていうことです。他方で、神武天皇まで遡る、というのは、複数の人について、「共通の男系祖先が」そこまで遡るということです。「任意の天皇まで男系で遡れる」人同士は必然的に「共通の男系祖先が」最大でも神武天皇までいけば一致するわけです。この二つは、同じことを、別の観点から言い換えているのです。

ですから、私は、そもそものはじめから、一貫して神武天皇まで遡った場合、の話ししかしてません。つまり、この箇所は、

(神武のY染色体をもっているためには)「任意の天皇にさかのぼればたどり着く子孫という条件を満たしさえすればいいのだから、その条件を満たすひとはたくさんいる」と書いているのです。

(神武のY染色体を持っている人がたくさんいる証拠としては、)「任意の天皇にさかのぼればたどり着く人がいればいい」

ということを書いたわけでも主張したわけでもありません。

私が主張したのは一貫して、

(神武のY染色体を持っている人がたくさんいる証拠としては、)「神武天皇までさかのぼればたどり着く人が現存していれば、それだけで論拠になる」

ということです。ですから「天皇以外の子孫の現存」が必要なわけですらありません。論拠としては、天皇の存在だけで十分なのです。

繰り返しになりますが、理屈はこうです。


世代ごとに、男系は減っていく。
しかも単純に減るだけでなく、減った分は残った家系で埋められる。
神武天皇以来、十分な世代が重ねられている。
他方で人口は神武天皇の時代より非常に増えている。
したがって、(神武時代に男系祖先を同じくするという観点での)家系あたりの人口は非常に増え、(神武時代に男系祖先を同じくするという観点での)家系の種類は非常に減っている、といえる。

以上を踏まえた上で、しかも神武天皇男系子孫は相対的に、生き残ったほかの男系のなかでもさらに有利な家系であった、という点がある。

で、二点目。

「相当昔の天皇の子孫でなければいけない」とおっしゃったということですが、これは第一に私のしていない主張、れおさんがわたしの主張として読み取った主張に対する反論です。つぎにこの主張そのものも、私の本来の主張の立場から言えば、間違っています。ですから、私が、この主張をれおさんにあらためて説いた、というのは、おそらくぼくの書き方がまずかったのだと思いますが、行き違いです。

次の図を見てください。

相当昔の天皇の子孫でなければいけないということからは、「皇室以外の、皇室から何代目かから分かれた子孫の現存」が、「神武のY染色体が多数残っている証拠になる」というロジックが読み取れます。

これは、「子孫A」の存在から緑の範囲の広さを推論し、緑の範囲の広さを、現存している男系子孫の範囲として考える、だから、緑の範囲が広ければ、言い換えれば、「皇室から分岐した時代が古ければ」、それだけ多数いる証拠になる、という論理でしょう。このロジックをれおさんが認めているのか、それとも、ぼくの論理として読み取られただけなのかは、わかりませんが、これは私の一度も主張しなかった立場です。

考えるべき、男系子孫の数、この図では16は、緑の範囲がどうなろうと、現在と神武との世代的距離によって決まります。緑色の範囲の広さは、何者も意味しないのです。この「子孫A」の現存によって、緑の範囲のほうが青の範囲よりも「存在する確率が高い」ということすら言えません。

そういえるためには、皇室からの分家は皇室から距離が離れるほど子孫を残す確率が落ちるという仮定をおかねばなりません。これは事実に反します。このモデルの問題は、皇室を特別扱いし、皇室との関係で決まる範囲(緑の範囲)に意味があると考えていることにあります。しかし、この樹形図の規模を考える上で、皇室とのあいだの系譜的距離には、意味はないのです。

三点目。
コメントがややまとはずれであった、という点は戸惑われたのであればお詫びします。しかし、ぼくはれおさんがロマンを感じることや、その他のれおさんの意見についてとくに反論も批判もしていませんし、するつもりもないのです。たしかにこの上の記事では、神秘的なものを云々と書いていますが、これは読者向けの主張であって、「こう書いたからといってれおさんがそう考えていると私が考えているわけではない」という気持ちだったのです。明示的に注記すべきでした。私は単に、すでに述べたロジック、


世代ごとに、男系は減っていく。
しかも単純に減るだけでなく、減った分は残った家系で埋められる。
神武天皇以来、十分な世代が重ねられている。
他方で人口は神武天皇の時代より非常に増えている。
したがって、(神武時代に男系祖先を同じくするという観点での)家系あたりの人口は非常に増え、(神武時代に男系祖先を同じくするという観点での)家系の種類は非常に減っている、といえる。

以上を踏まえた上で、しかも神武天皇男系子孫は相対的に、生き残ったほかの男系のなかでもさらに有利な家系であった、という点がある。

から現存数は相当多数に上るであろう、という主張をすることにのみ関心があったので、れおさんが争点と考えておられる「何百万・何千万」という具体的なオーダーにこだわってはいないのです。たしかに撤回していませんし、そのくらいあるかもしれないと思わないでもありませんが、「ごろごろいる」というだけのオーダーに達するだけいれば、いいかえれば、珍しくもなければ、ぼくの元来の(れおさん対象をにしたものではない)エントリーの趣旨(Y染色体論批判)には十分なのだし、それが目的だったわけです。

そういう意味では、ぼくとしては、どちらかというと、結論がたとえ一致しようと、その過程でのロジックに対する批判が間違っていると(私から見て)見えたがゆえに反論してきたわけです。それがやや大局を見失ったものであったかもしれない、ということは認めます。