系譜的同一性と内容的同一性 家族的類似性

万世一系の議論でY染色体についての具体的なことには立ち入らなかったけれども、これは「性の決定以外には形質を発現させる遺伝子をほとんどふくまず」、「相対的にほかよりも変異の激しい」染色体なので、そこに内容的意味や連続性を見ようとするのに科学的な意味はないといっていい。ここで露呈しているのは、系譜的同一性と内容的同一性の混同だ。

ある経路をたどって行ったとき、その経路に属するものを、その経路に属するという理由でまとめたものが、系譜的同一性。

他方で、それに属するものに内容的に共有されるものがあるがゆえにまとめられるものが内容的同一性。

ひとはつねに、系譜的同一性に内容的同一性を幻想する傾向を持つ。つまり、ある系譜的同一性が存在したときに、そこからさかのぼって、その「系」に属するものには、少なくともひとつの「普遍・不変要素」があったはずである。そしてその何かこそが、その同一性の「本質・根拠」である、とみなしたがる。しかしこの「形而上学的」推論は、一般論としては間違っている。

この誤謬の原因は何かというと、「事」の次元にしかない系譜的同一性の、「現実的依代」がほしくなる、あるいは錯覚するという傾向がある、ということである。これは物事の存在のタイプの混同だ。たとえば犬というクラスの存在と、個々の具体的な犬の存在では、存在のタイプが違う。これを混同すると、吉田戦車の有名な不条理四コマのように、「そういうんじゃなくて『犬』そのものをください」ということになる。

系譜的同一性は家族的類似性でもあり(いや家族的類似性の場合は局所的には内容的同一性が成り立つから、そうですらないこともありうる? )、遷移的な「同一」性でもある。系譜的・遷移的なグルーピングというのは、要素にとって外的なものなのだが、われわれはなぜか要素にとって内的な、つまり内容的同一性があるはずであるとかたくなに思い込む。この「本質主義的投影」の事例は多く、根が深い。