社会科演習授業

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/

いろいろあるけど、面白そう。

外国人参政権
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/zainiti2004.htm
論点がすごいまとまっていて便利。

とりあえず、少なくとも憲法に「国民固有の権利」と書いてあるから、という理由付けはペケだと思う。憲法解釈で文字通りに解釈すると読みが不条理になるから全体の文脈で読んで、「国民」を「人民、住民」の意味でとることも必要、というのはこの論点にかぎらず、いまやほぼ定説になっているし、動かないところだと思う。また、近代憲法の形成の歴史から見ても、憲法のこの規定は、国民と外国人という対立軸ではなく、政府と市民、人民という対立軸で、政府、権力は参政権を奪ってはならないという規定であることは明らか。だから、反対するのなら、もっと本筋のところで議論すべきだろう。

国民主権

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20041022#c
国民主権という概念が主権在民の意味であって国籍条項的な意味のものではないことは、別に国民国家形成時だけの「言葉の用法」的なものではありません。これまでつねに、どの国の憲法を見てもそういう意味で理解されていますし(多くの場合、人民と明記してありますが、国民といっている場合はそうでないかというと違うのはすでに述べた文義的解釈でいいかどうかというのにかかわる話)、法学の学説においてもそうです。冷戦後だからそういうふうに新解釈してもいいのだ、というのは、まあそういう考えの人にとってはひとつの見識なのかもしれませんが、それこそ解釈改憲というものでもあるし、また日本人だけが一般的な理解と異なる奇妙な定義を下すという問題を生じさせるでしょう。

また、状況の変化が、国民主権の意味内容をかってに改訂することを正当化するような変化である、という論証も必要ですが、まったくそれがなされているとはいえない。念のためにいえば国民概念をつねに普遍主義的な人民概念によせて理解すべきだといっているのではまったくない。労働者の国際的連帯だとか、まったく関係ないトピックで、どういう誤解をしているのかよくわかりません。したがって、国民という枠組みの変化が問題なのではなく、国民主権という概念を理解するという文脈においては、そのかぎりで、政府との対比における人民主権の意味で理解すべきだ、(その意味で本当は国民主権という訳語がすこしずれている)という話をしているにすぎないわけです。

つまり、国民主権は、別にその「民」を国籍で制限することを排除したり禁止したりするわけではないが、また、そうした国籍条項的なことを、それだけでは踏み込んで意味していない、要するにその件については中立、ということです。

さらに本質的なことをいえば、憲法とは、権力を、民衆が抑制するためのものです。これが立憲主義の基本的理念で、国の基本綱領的なものは憲法ではありません。そういうものは基本法みたいなものがあれば十分です。その意味での立憲主義の理念の文脈において、国民主権は、主権在民の意味で理解される、ということです。

で、このことは、あくまでもかってな拡大解釈への批判であって、当の参政権への賛成反対、どこまで許容されるか、といったことを論じているわけではありません。国民主権を論拠とするのは無理だ、というそれ以上でもそれ以下でもないわけです。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennppoukokuminnsyukenn.htm

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1503/kokuminsyuken.html

議論自体はいろいろあるようで、
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0011-3.htm
ぼくとしてはこの件でいいたいのは、憲法立憲主義的理解がなされていないから、国民主権の理解が偏っているんじゃないか、ということであって、実際、国民主権をただしく主権在民の意味で取った上で、国政のレベルにおいては、国籍の保持が参政権の条件である、という理屈は当然成り立つ。

ついでにいえば国民を価値観を共有する人々の集まりとみなすのは、ある種の自民族中心主義ですよ。国民とは法と安全保障に関する運命共同体を契約においてうけいれた人々の集合です。そのかぎりで、文化的、価値観的な多様性は、受け入れられるべきです。エスニックな共同性、同質性を国家に求めるのは、文化的な面での全体主義的要求でしょう。

手塚眞「白痴」からはじめて

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とりあえず、銀河は広末涼子のイメージだと思う。で、戦争とアイドルの親和性の高さの指摘は非常にクリティカルというか、面白かった。(あの「私勝つわ」の歌だけ発売したりしないかなあ)最後のほう十分間は意味不明というか、どういうつもりだと。おそらく、世界の再生のイメージなんだろうけど、これはつまらない観念的映像。なってない観念的前衛はなぜいつもサティをBGMにしますか。パーティのシーンにしれっとYOUさんが出ていてそれがちょっとうれしい。思うに広末はアイドルとして古典的であるかどうかという意味ではなく、アイドルであるのに古典的な存在だったと思う。というか、あややがアイドルとして過剰にアイドル的であるような意味でアイドル的なのではなくて、アイドル的なものがそれをずらしているようなものとしてのオリジナルとしての何か、そういう古典的な何かだったと。つまり、残酷さ、サディズム、無垢、はかなさ、純粋性、観念性、潔癖性というような諸特徴をもった存在という意味で、古典的。(彼女の場合、「はにかむ」というイメージも重要なのだが、これは古典的イメージの枠内なのか、彼女の独自性なのか)そしてこのような意味での処女性イメージは、戦争とナショナリズムの高揚と親和性が高い。それはヒロスエがどうこうというより、彼女にまつわる状況もふくめたパブリック・イメージの話なのだが、しかし彼女が哲学好きとか言い出したことを聞いたとき、やはりこの図式の中にあまりにもぴったりと当てはまっていたのだった。もちろん、このようなむしろ「文学的」な古典的処女神イメージは、たしかに安吾の女性像のひとつの極と親和的で、そのかぎりで、かならず安吾を映像化するひとがつねに「夜長姫」を参照することは無理もない必要性があるのだろう。そこでヒロスエ的な古典的処女性イメージと萌え的な現代的なロリータ像の差異を測定することはそれなりに面白そうではある。とはいえ、この古典的像とのずれは、古典的なアイドル的なものとのあいだにも生じていて、そういう古典的な意味でアイドル的なものは声優のほうに移行しているんじゃないか、ということはいえそうである。ところでもとにもどって最後にエヴァっぽくヒロインの白痴の女が巨大化するのだが、これは何なんだろう、こういう映像を作りたくなる理由は何なのかと考えて、

ああ、これは西遊記のお釈迦様のイメージがどこかにあるんだな

と思い至った。ついでにいえば、同時にこのことは、怪獣映画の怪獣とは女である、ということも意味する。

まあ、だからといって、ラストで女性が巨大化してうやむやになるというのが、方法論としていいかというと、ぜんぜん別の話だけど。