http://d.hatena.ne.jp/mkomiya/20030710
 うーん、やっと相違点が見えてきました。
 しかし、多分、小宮さんは、哲学が目的としているものを誤解していると思います。哲学は、言語や知性から独立した外的事実を明らかにするものではありません。言語以外のものによって、言語的実在である概念を記述することは不可能です。概念を非言語的で物理的な実在として想定されているのかもしれませんが、違います。概念は、言語や人間知性が物理的である限りで物理的なのであって、それ自体が、言語から独立して物理的に実在しているわけではありません。したがって、言語以外によって、概念にアクセスすることは不可能です。
 まず、言語をよりどころにしない哲学的探求というのは、矛盾というのか不可能だと思います。というのは、哲学は、言語の外部にある、なんらかの実体を探求するわけではないからです。あのー、できれば言語を捨てた場合の哲学のありようというのを漠然としてでもいいと思うので具体例をあげてみてください。賭けてもいいですが、それは哲学ではなくなっていると思います。つまり、哲学的問題をその学は解決することはできず、別のよくにた、しかし異なる問題に解決を与えるだけでしょう。
 それから、ぼくが、独立したという言葉遣いをした理由を説明したのが伝わっていないと思います。
 物理的に検証できないということは、客観的な知識の対象にならないということではない、ということを言っているのです。ぼくがあげた具体例はすべてその一例です。できればそれぞれの例に対して、それがどうすれば物理的な検証の対象になりうるのか、教えてください。それが、できない、という意味で言っているので、人間が物質的な存在であり、かれが思考することもすべて物質的現象である、ということは、そのことと、完全に両立するでしょう。

 「事実を検証することで、その議論に決着をつけることができない種類の問いがあり、そしてその問いは、では不可知かというとそうではなく、理論的な討議の対象になりうる」

 実例はすでにたくさん述べてあります。

 と、いうことを、事実の検証から独立している、と表現したので、それを、形而上学的真理が、事実から独立して存在し、それを人間が探求するのだ、などと主張しているかのようにとらないでください。このふたつは全く違います。

 事実によって検証できることだけが、知の対象であるという前提を批判しているのです。論証によってのみ討議するほかない問題領域があり、それは物証に訴えず論証のみに頼るからといって恣意的なものかといえば、そんなことはない、ということです。

 最初の問題に戻りますが、哲学が言語を用いるのは、哲学の対象が「意味」だからです。哲学にとって言語は「道具」ではありません。言語は哲学に内在しているのです。というよりもですね、わたしにはやはり具体的に非言語的な哲学的探求というものが想像もできません。たとえばそれは普遍言語、哲学的言語というものを発明して、「厳密な記述」を行うということでしょうか。しかし、そのような普遍言語は、やはり言語によって定義されざるをえません。なぜなら、再三繰り返しますが、哲学の対象は言語の外部に存在しているわけではないからです。形而上学批判とは、まさにそういう「言語論的転回」として行われました。

 なんというか、言語を抜きにしてたとえば「善」とかそういう概念が探求できるという考えは、それこそ形而上学だと思います。「善」がどこかに言語と独立して実在していないとそんなことは不可能ではありませんか。哲学は、概念によって概念を考究します。この対象と探求が、同じ「概念」そして具体的には言語によって行われるという、対象と主体の領域の同一性は、原理的なものです。だからこそ困難なのですが、そしてこの困難は除去不可能です。解明されるべきその当の対象である概念を使用せざるをえない、ということは、不可避です。

 たとえば、かりに、言語を捨てることが可能である、ということに同意したとして、たとえばどういう研究がそうだというのでしょうか。AIを研究し、人間の知性とはその要素がいかに組み合わされていかに相互関係したときの現象であるかがくまなくあきらかになって、人間知性や脳が、「どのように機能するか」いいかえれば、「脳にどのようなアクションをすればどのようなリアクションがかえってくるかが完全に理解された」とします。そして、随意に反応する脳を随意に構築可能になったとします。さて、そのことが、哲学的探求、たとえば、「独我論はただしいか、まちがっているとすればそれはどういう意味でか」「よくいきるとはどういうことか」「自由意志は存在するか、そもそも自由であるとはどういうことか」といった問いに、その知見がどう寄与するのか、まったく不可解ではないでしょうか。「いかに」事物が進行しているのかの知はたとえば「なぜ、なんのために」という問いにこたえを与えません。念のためにいっておきますが、「ひとがなになにのためにそれをしたと思うということはどのようにしておきるか」という問いは答えられます。
 この二つを同一視してはならない、といっているのです。

 たとえば、「ひとは自由か」という問いと、「ひとはどのような場合に自由だと思うか」という問いはまったく別のものであり、後者に答えたことによって前者に答えたことにするのは間違いだということです。前者は哲学の問いであり、後者は科学の問いです。

 たとえ、全世界のすべての事象について「HOW」が理解されたとしても、そのことは、何ら、哲学的問いのこたえにはならないのです。哲学が、科学と対象が異なる、ということは、哲学もその対象も物質的な基盤なしでは存在できない、ということと、全く矛盾していない、ということです。

 対象のメカニズムを理解することが哲学ではないんです。そうではなくて、概念相互の関係をあきらかにすることが問題なのです。

http://www.lib.meiji.ac.jp/serials/kiyou/no5/ishikawaH02/node5.html

興味のある方はこちらも参照されたし。
http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/books/ChalmersDavidJ001.htm
http://www.logico-philosophicus.net/gpmap/routes/route012.htm
たいへん、おもしろいです。