自由意志メモ2

下のノートから要点。

 存在論的というか物理レイヤーで自由意志は(人間的な決定の自由を確保するというような意味では)必要ないと思う。その上で走っている言語、精神、脳神経、認知科学、社会関係のレイヤーで成立すればいい。また、いずれにせよ、決定主体であることからは経験の内部では逃れられない。すなわち、強い意味での自由意志の有無はどのような差異を生むか。また、それが仮に物理レイヤーの問題だとしたら、それは検証可能性を持つか。

 そのものの本性上、他でありえない場合、それは、少なくともそのものにとっては制約ではない。それを制約と感じるのは、そのものの本性を変更しうるメタレベルの存在者にとってでしかない。したがって、物理法則は我々にとって制約ではない。が、物理法則を変更しうる神にとっては、我々は物理法則に制約されているように見える。黄色にとって色であることは制約ではない。が、黄色が色以外でありうる存在、あるいは世界から我々の世界を観察すれば、黄色は制約されているように見える。端的にいえば、我々はたとえば物理法則を誰かに強制されているわけではない。規則に原理的に違反しうるときにだけ、規則にしたがっているといいうるからである。(ウィトゲンシュタインの規則論を参照)むしろ、物理法則に世界がしたがっているのではなく、世界を物理法則が記述しているのである。

 制約という言葉はここでは強制されている、くらいのニュアンス。

もっとも(強い意味での)自由意志がなぜ必要かという問いは反転して私がなぜ自由意志を批判したいのかという問いを呼び覚ましうるかもしれない。あるいは自由意志が幻影に過ぎず世界は決定論的であるという言説が私にとって心地よいから、という想定は真実を当てているかもしれない。しかしたとえそうであれ、経験の内部では私は自由と決定の重圧と不安から免除されることはありえない。よって、たとえそうであったとしても、それは所詮、私という主体についての心理学的エピソードに過ぎないと思われる。