ノート

 自由意志というとき、強い意味での自由意志がなぜ必要なのか、という疑問が私にはある。強い意味での、つまり、何か存在論的なレイヤーでの自由意志があろうとなかろうと、我々は自ら決定を迫られ、それを他に任せることはできない。我々は少なくとも主観的な経験においては、他に判断をゆだねる場合においてすら、それを他に判断をゆだねるという決定として経験する。このかぎりで、実存主義的な意味で、自由は人間に課せられたのろいであり、人間性の条件である。

 即ち、あたかも私が意志決定しなければ私の身体は行為しないかのようである。

 弱い意味・すなわち広い意味での自由意志においては「人の言いなりである」という意味での自由意志の有無の問題があるけれども、これはもはや別の問題を構成するだろうと思われる。これこそ、「想定された本来の、影響のない、孤立した状態でのその人の決定」という現に眼前にないものをどう再構成するか、という法的擬制の問題のように思われる。あるいは、我々が「自己」というものをどのように考えるかというテーマのほうに関係するだろう。

 この場合、参照すべきはニーチェ力への意志かもしれない。つまり、我々が「自己」を他とせめぎあう「力=意志」として捉える限りにおいて。

 しかし、このような問題系は、そうした力のせめぎ合いが、そこでおきる基底的レイヤーが決定論的でもべつにかまわないんじゃないか。

 自己が力=意志であるのは、社会的、関係的レイヤーであって、それがその上に成立している物理レイヤーでの話ではないだろう。仮に、私が、コンピュータの中の自己意識をもつ完全な人間と同等のAIであったとする。私はそして、決定論的に記述できるプログラムであるとする。これは不条理な想定ではない。この場合の私には明らかに強い意味での自由意志は欠けている。なぜなら、いったん、リセットして、また完全に同じ仮想環境を与えれば、私は同じように振舞うからだ。しかし、この想定された私に欠けているものがなにかあるのだろうか。

 現実の私もまた、私の精神の動作にとって意味を持つ範囲の差異をもたないという意味で完全に同じ環境と完全に同じ過去を与えれば、何度でも完全に同じ行為をする筈である。

 私は永劫回帰について語っているのか?

 これは自由意志の欠如だろうか?

 同一の過去は同一の結果を産出する。したがって、問題は、この同一性をどの抽象度で判定するかということではないか。

 我々の日常現実が不確定で非決定論的なのは、我々の同一性判定がゆるいからである。(というのが、スピノザ的観点)我々の同一性判定がゆるいから、我々は同一の過去から複数の結果が産出されるように経験する。そして、たしかにそれは、その抽象レベル、捨象度においては正しい。この場合にのみ、「他でありえた」ということが意味を持つ。

 となれば、問題は、同一の原因は必然的に同一の結果を産出する、というテーゼを承認するかどうか、ということだろうか。

 ここでもうひとつ、重要な問題。

 規則に従う。ということへの、ウィトゲンシュタインのテーゼを参照する。

 我々が、多くの場合、誤って、不自由と呼ぶものの多くは、不自由ではない、という点。

http://www.geocities.jp/enten_eller1120/postmodern/witt.html

 規則は、違反しうる限りにおいて、規則である。(従いうる。)

 黄色にとって色であることは制約でも不自由でもない。他でありえないからである。

 物理法則もそういうものだろう。物理法則が私の行動を制約している、としばしば私は言いたくなる。しかしこれは間違っている。物理法則は私の行動の規則性を記述しているのであって、あえていえば、私の身体を制約しているのは私の身体である。何か、よそに、私の行動に対抗している何らかの他者が存在するわけではない。(これは物理法則の範囲内で私の身体を他の物体が制約する事態とは別の話である)