かたること、みみをかたむけること

 http://www.halfdime.net/text.htm の2/12のテキスト。

 話の意図はわかるのだけど、この文章自体がいかにも割り切りすぎていて、ひどく危うく見える。そのことが、この文章が指摘している論調というか雰囲気の一例にもなっているかのようで、そういう意味でも、なかなか気になる。実際のところを言うと、根拠があって主張をしていても話も聞かずに切り口上でなぜならなになにだ、と言うひとも困るわけで、それは観念の理として一分のすきもないのかもしれないけれど、一分のすきもないということは実際にはあまり誉められた属性ではない。実際に本当に一分のすきもないということはありえないのだから、むしろ隙をカバーする、現場で修正する能力のほうが求められるからで、それが、論敵の話を、論破するためだけではなく「本当に」聞くということだ。仮にも真剣な対話をして、それでも自分の事前のプランに修正するところがなかったら、むしろひとは恥じるべきではないだろうか。わたしは善く対話することができなかったと。
 もうひとつあえて付け加えると、ただ言語化できない違和感だけがあって、それだけが抜きがたいとげのようなリアルで、しかしではどのような対案を見出せばいいのかいままさに対話の場に至っても確たるものはない。だが、それではだめなのだ、ということだけははっきりしている。そういう場合だってあるだろう。たしかに、その違和感をまもるために急場持ち出されている欠陥の多いにせの対案は否定されなくてはいけないことが、おおいだろうけれど、ひとはつねになにか理由があって反論する。たとえ説明できなくてもそれはやはり自分にとってはなにかただしさを帯びているもののはずだ。ひとは自ら不義とかんがえることを信じることは難しい。だから対話は常に、なぜあいてはこのような意見を正しいt考えるのだろう、そこにある違和感、動機付け、かくれた、間違ったかたちで擁護されている見えない義はどこにかくれているのだろうと考えなくてはならない。
 必要なことがあるとすれば語ることであるというよりも、ひたすら耳を傾けること、それも、データではなく、サインではなく、こたえをせまる問いかけとして、なぞかけとして、ひとのはなしをきくことなんだとおもう。