選択肢についてのノート

 ひとは誰かに選択を迫られうる。しかし、選択肢を事柄に迫られるのと、他者に迫られるのでは、実はおのずと違いがある。

 ひとが何者であるかを自ら示すのは、いかなる選択肢を選ぶかによってでは、実はない。ひとが、自らを何者かとしてあらわすのは、いかなる選択肢を状況の中に見出すかによってである。

 だから、与えられた選択肢のなから選択した段階で、いかなる苦悩や思慮がそこに加わっていようと、わたしたちはその選択肢を提示した他者に従属しているのだ。どちらを選ぼうとも、それはある意味で選択肢の作成の時点に織り込まれている。

 どんな選択肢にでも、じつは暗黙の選択がすでに書き込まれている。だから、ひとは本当の意味で自らの行為を、与えられた選択肢から選ぶという形では、決定することはない。ひとが決断したのは、じつは、その選択肢のなから選択するときめたときだったのである。

 たとえば完全に中性的な、きみは右に曲がるか左に曲がるか? という選択肢にも、すでに選択が書き込まれているのか、と、問われるだろう。そのとおりである。

 まず第一に、きみは直進しない。きみは道上をゆき、道から外れない、そして、右に行くか左に行くかこそが、重大な意味を持つ変化をもたらす、などなどといったことにすでにあなたは強制的に同意させられている。しかもその同意という行為は、あまりにも自然で音を立てない動作なので、あなた自身も気がつかない。

 このような消極的意味で、だけではない。積極的な意味でも、すでに選択は決定されている。つまり、このように表現の価値付けに平等な表現が与えられているということは、わたしは右か左かを偶然に、あるいは無根拠に選択するだろう、という含意がある。

別の場合と比べよう。あなたは天国に行きたいですか、地獄に行きたいですか。この選択肢には、まずこの選択肢に同意するだけでものすごいたくさんのことに暗黙の同意をすることになるが、それだけではなく、あなたの行為はやはり暗黙のうちにすでに決定されている。つまり、あなたは天国に行きたいのである。なぜなら、もし、あなたが地獄に行きたいと答えるとしても、そのときには、あなたは、地獄と呼ばれているほうが本当は天国なのだ、というスタイルでしかそちらを選べないのであり、その意味で、あなたは実際上は、どちらを選んでも、天国に行くのだ。

つまり、選択肢それぞれにはあらかじめ「評価」がくわえられていて、しかも「あらかじめの排除」もおこなわれていて、選択そのものは、ほとんど、どうでもよいものであるかのごとくだ。

もちろん、こうしたことは、実際によって反駁されうる。あなたの行為は、実際には、設問者の予想を裏切るかもしれない。しかし、もしあなたがごくごくふつうに選択肢を受け入れて選んだとしたら、少なくとも、あなたの選択の意図、あるいは思想は、設問者によってほとんど決定されているといってもいい。

このあらかじめの決定にはいろいろな度合いがあるけれども、本質的には、選択肢から選ぶことによってではなく、選択肢を設定することこそが決定的に重要なので、もしあなたがよりよく選択肢を設定することができれば、その度合いこそ、あなたの精神の自立の度合いなのだ、とはいえるはずである。

だから選べといわれたときは、すくなくとも、選択肢の「表現」について考え、その選択肢から何があらかじめ排除されているかを考えることが、なによりも不可欠で、そのうえで、どうしても手続き上、提示された選択肢から選ばなければならないのなら、そう、その選択肢を、自らに対しては「別の名」で呼ぶことである。