vermilion::text in 276F "虹と沈黙" その一 β

 リーナがその家にやってきたのは七の葡萄月のある晴れ渡った夜のことだった。夕暮れがドーム上の空から去りつつあり、暗闇の翼がようやくその不安な美しさで世界を抱擁しようとしていた。さながら、すべてがその新鮮な闇の中で歌い始めようとしていた。銀色の風は闇の中に不思議な流線を描き、蔓草のように見えた。
 いまでも彼女はその日のことを夢に見ると言い張るのだが、そんなはずはないよ、おまえはまだ片手のこぶし位しかなかったからね、とフィオナは笑って取り合おうとしない。フィオナはいつもそんなふうに彼女を赤ん坊扱いにするのだったが、それは彼女の年月によって鍛えられたユーモアがつくりだした義理の娘へのいたわりだったのかもしれない。
 「周縁」から流れてくる緑の川をリーナは死にかけながら村はずれにながれついたのだった。その小さな幼児がどこから流れ着いたのか知るものはいなかったし、当座はそんなことを詮索するものもいなかった。世界の残酷さをその記憶の無意識の中にきざみこみながら、平穏な村の日々はリーナを楽園の花のように成長させたのだ。人々の記憶の中には今なお泥で汚れ熱に浮かされて死のふちに立っている哀れな幼児の姿が消えてはいなかったが、それでもリーナの微笑みはひまわりよりも周囲を明るくした。
 「わたしは星の娘なのよ、フィオナ。そしていつか美しい鳥たちに迎えられて懐かしいそらへと帰るの、そこではすべてが歌っていて、喜びにあふれているのよ」
 「そうさな、そうなったらわたしは毎晩あんたを見上げなきゃならないね」

 風が強い日だった。はての海から、三日月型の内海へと抜ける運河は老人たちの言う「不安なおしゃべり」をくりかえしていて、何年に一度という風は主婦たちに恰好の話題を提供していた。こうして彼女たちは書かれない年代記をまた一年と刻んでいき、墓の向こう側にまで持っていくのだった。どれだけの愛と悲惨が朴訥な主婦の胸の中にかたく秘められて他界へと運ばれたことだろう。だがもはやそれらを知るものはどこにもいないのだ。
 
 「お聞き、リーナ。大地が震えているよ。悲しいことがあるのさ」
 「まあ、フィオナ。大地みたいに偉大なものに何の悲しいことがあるの?」
 「偉大なものには偉大な悲しみがあるのさ」
 リーナが何を答えようとしていたにせよ、そのとき、鳴り響いたノックによって中断された。ドアを開けると、風とともに吹き込んできたのはリーナの運命だった。

 それは暗い顔つきをした若者で、村どころか、この半島のどこでも見かけたことがない決意を隠し、それにふさわしくない夢見るような目つきとを持っていた。それがなんであったにせよ、予期したものとは違ったらしく、かれはひらかれたドアの向こうの光景にしばらくあっけに取られ、それから、静かに微笑んだ。
 「申し訳ない、騒がせてしまって」

 男はフィオナに、緑の川とそれにまつわる言い伝えのことをたずねた。かれは世界の果てを探しているのだといった。

 「なぜ果てを探すの?」
 「果ての向こうに何があるか知りたいからだよ」

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 翌朝、フィオナ・バーンズは緊張した面持ちの娘が、なにか言い出しにくそうにしているのに直面しなければならなかった。
 「ねえ、わたし、あの、わたし、あのひとを川まで案内してはいけないかしら」
 フィオナは、その瞬間に、娘の幸福な子供時代が終わり、それがどのようなものであれ、人生が訪れようとしているのだと悟った。それは彼女にも覚悟を強いるものだった。結局、だれよりもリーナを子ども扱いにしてかわいがることで救われてきたのはフィオナのほうだったのだ。