vermilion::text in 555F ”キャンディ、アイスクリーム、デッドマン その一” β 

 555階”グラファイト・シティ”ではいつも誰かが何かしらを追っかけている。

 目が覚めると電話が凛々と啼いていた。糞っ、春だってのにひとを犬みたいに追い回しやがってと苛苛したというにはまだ足りない夢見心地の不機嫌で起きあがると、重い水を振り払うように頭を振って受話器を取った。受話器は死にかけの羊のような頼りなさで、冥界通信かと思うほど声は遠い。何度か聞きかえしてやっと相手は分署のライデルだと判った。すると、またくだらない汚れ仕事をママに預けて自分はぐっすりおねんねしたいというわけか。おれは急速に立ち上がる自分のなかの職業的偏執狂性向に身をゆだね、身支度をしながら委しい事情とやらを聞き出した。

 地獄の鬼婆のまぎれもない私生児ライデル・フォートワースがなげてよこした腐りかけの餌についていたトレード・マークはその名も高きエンディミオン・インク、お決まりの汚職がらみだった。グラファイト・シティの首根っこを押さえ、階の化学産業のトップテン・チャートには常連のエンディミオン・インクの研究員の死骸が、ザ・リバーの左岸に風船みたいにふくれあがって見つかったのがそもそもの始まりだった。そいつの名はすぐに警察の連中の地味な働きで判った(ご苦労様)、繊維合成の研究で飼われていた「秀才」ランドルー・ハロー(28)は前日までうきうきで豪遊しまわりの不審をかっていたらしいが、やつがどんな汚職に手を染めたのか、「残念だが」(ライデルらしい言い回しだ)、警察はかけらもつかんじゃいない。

 ザ・リバーは不気味な川だ。グラファイト・シティの真ん中を流れるけっこうな大河のくせに、葬式のとき以外、だれもその存在すら認めようとはしない。だから、おれはまずここに来ることにした。蒼白の空にはあつらえむきの鴉ども、黒い川にはいまでも死骸が流れているかのようだ。

 橋のうえでおれは川面を眺めながらコートに両手を突っ込み、過ぎ去った日々におれを罵倒して去っていった女たちの主張を仔細に検討し始めた。現場検証など警察がやり尽くしたに決まっている。だんだんとうんざりしてきて、けっきょく俺はろくでもない馬鹿だという結論に達しかけたころ、不意に声をかけてきた人物がいた。

 「どいてくださらない?」

 見るとそれはまだ若い、だがどこか悲しげな、しかし夢見がちなひとみには、自分は不幸せだと誰かに思い込まされているだけで、本当はすべては美しいのではないかと熱心に問い掛けるようなところがあった。要するに、おれは一目で彼女に参ったというわけだ。黒で統一されたワンピースは飾り気がなく、なおさら彼女を少女めいて見せていた。

 「なにをするんです?」

 だがおれは彼女が花束を持っているのを目ざとく見つけていたし、この件に関する資料はいくらおれが怠惰で有名だとはいえコーヒーといっしょに朝飯前に飲み込んでいたから、これがあのおろかなランドルーの残された恋人であるということはわかっていた。

 そう、そのときおれは彼女の名前を思い出せずにいたくらいだったのだ。
 その名、甘美なリジャイナという名を。

 グラファイト・シティの外部のことを誰も話題にしようとはしない。そこに何があるのかというのは、真理は実在するかというような、暇つぶしの話題にはなりえても、けっして大人がまじめに話題にするようなものではないとされていた。ときどき異様な風体の旅人たちがおとずれたが、かれらはすぐに立ち去ったし、ここグラファイト・シティの資本主義どっぷりの気風では、そうしたなぞめいたことは、広告業界でしか必要とされてはいない。だがおれは長い稼業の中で、もしかしたら、すべての背後にはばかばかしいような大きな秘密があって、エンディミオン・インクがそいつをしきっているんじゃないかというふうに感じ始めていた。つまり、ようするに、おれの愛する世俗的な暮らしに、奇妙な闇が紛れ込もうとしていたのだった。

 リジャイナ・エリスンにおれは鄭重至極に自己紹介すると、型どおりにお悔やみを述べて、近所の喫茶店に誘った。すこしだけ、熱心にすぎたかもしれない。
 ところが、奇妙な確信めいたものをたたえて彼女は、注文したコーヒーがじっくりとミルクと馴れ合うよりも早く、こんなことを言い出した。

 「ランドルーは、ぼくは魔女に会った、そういったわ」

続く。