キーワード日本人

のことで、id:yhleeさんが突出して際立ってしまう、それもクレーマーまがいに誤って理解されて、ということに、問題の質を感じる。実際に経緯を見れば、よんひゃんさんは、少なくともいちばん多くコメントでの議論に参加した人ではないし、編集を何度もした人でもない。なぜ代表視されてしまうのか。変である。

ちなみに、よんひゃんさんがされた編集の方針は、国籍による定義を本来のものとする、ということだった。

考えてみれば、日本人という言葉があいまいで、それゆえに軋轢をうむのは、意識的理解と、暗黙の理解との間に断層があるからだ。日本人というのは、日本という国のメンバー、つまり日本国民のことだ、とひとはいいうる。これは意識、建前で、これをつきつめると、日本国籍をもつものという定義になる。

だが、他方で、現実にイメージし、想定している対象は決して、日本国籍をもつものという範囲とはけっしてかさならない。それはむしろ、人種主義的で、民族中心の範疇だ。文化的で、人種主義的な同胞意識が問題になる。

つまりこういうことだ。概念の内包、意味としては、国籍ということが言われ、そのように主張される。他方で、概念の現実的対象、集合のメンバー、すなわち「外延」は、そうではない。そしてこの二重性こそが、マイノリティを暗黙のうちに、感覚的に、排除する根拠になってきている。

都合のいいように、状況状況で、一方から他方へと移るわけである。

この無意識の使い分けこそが、問題の源泉なのだと思う。だから、よんひゃんさんが国籍中心の定義を提案するとき、そこには、建前でそういうふうにいうなら、実際の用法も、そのように使用すべきだ、というのがあったのではないだろうか。