瑣末な語句の詮索

 スコラ的な瑣末の語句の詮索という言い方は、感情に訴えるだけに俗情と結託しやすい。ある事柄が瑣末な、つまり、自己目的化した議論であるかどうかは、かかって場合による。なにが瑣末でなにが大事かは、その語句が存在する社会的効果の磁場によって決まる。

 ユダヤ人であることが生命にかかわる社会では、ユダヤ人とは何者かということは、きわめて重要事で、その政治的、社会的磁場にいない人間にとってどれほどばかばかしい瑣末事でも、現に瑣末なことではなくまじめに議論するに足る問題だ。

 同じ事は、現在のイスラエルにおいて、イスラエル人とは誰か、という問いのきわめて先鋭なアクチュアリティについてもいえるだろう。イスラエル人であること、ヘブライ人であること、ユダヤ人であること、どの語句を選び、どんな意味を与え、そして具体的にどの範囲の人々に、どんな権利を与えるか、これは比喩的ではなく死活問題である。(具体的にはhttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0398.html

 同様に、現在のアメリカでも、アメリカ的とは何かということは、非米的とみなされるがゆえに排斥される風潮の中ではきわめて論議を呼ぶものだろう。テロリストという語句の定義は現実政策において、また社会的な思想でどういう立場をとるかにおいて、きわめて重大事だ。そしてそれは傍目にはきわめて瑣末な詮索になることは、十分にありうることなのである。

 政治的、社会的な、感情に訴え、また、実際に社会的な権利の範囲や排除にかかわる語句の意味を考えることは、けっして瑣末なことではない。またそういう意味があたかも社会的な現実の議論以前に定まっているという考えは、社会的な現状の受容を意味するだけである。言葉の意味はそれが社会的に受け入れられる程度に応じて、きわめて現実的な効果をもつことを忘れるべきではない。