選択について

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20030618
http://sheepman.parfait.ne.jp/20030622.html#p07
http://www.alles.or.jp/~spiegel/200306.html#d20_t2
http://diary.lycos.co.jp/view.asp?QnDiaryId=47721&QnCommentid=2110946&QsSortOn=&QsSortType=

 選択肢が奪われていると言うのと選択肢がありすぎると言うのはあるひとつの出来事の両面なんじゃないか。ひとがありあまる商品から選ぶとしても、その選ぶ欲望は商品によって喚起されたものに過ぎないから、あらかじめ商品化されている。そこではある貧困、去勢、可能性の範囲を制限された量的多様性(バリエーションの多様性/クリエーションの多様性 http://jouno.s11.xrea.com/x/blosxom.cgi/200306210043.writeback )があるにすぎない。

 対抗軸なき管理と言うのは、「誘導と監視」なわけで、つまり「分子的なマスの流体力学的制御」みたいなもんではないだろうか。

 選択の多寡が問題なのではなく、決定が選択肢からの選択として現れることが問題なのではないか。提供される選択肢のなかから選択する限り、選択肢がどれほど膨大であろうと(いや、膨大であればあるほど)、貧困な選択しか行われない。(選択肢を与えると言うことは、「選択する理由もあらかじめ提供すると言うことだ」)なぜなら、選択肢から選択する行為には本質的な意味で思考は欠如するからだ。

 室内化と言うのは監視カメラがイギリスでおおはやりみたいな話で、ストリートというものを不可能にする試みなのではないか。廊下さえ不在にして、部屋から部屋へと生が完結する。

メモ
http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/