暗示的な書き方について

ときどき、かなり昔からではあるのだけれど、日記で、それまでの経緯を追っていないと、あるいは追っていても、ごく少数にしかわからないあいまいな省略のある文章を読むことがあって、しかもそういうあいまいで省略のある文章はけっこう感情的な齟齬にかかわることが多かったりして、ぼくはそういう文章にひどくいらだたせられてきた。そういう意味で、観念的な文章と、個人的な文章は、対極なようで、等しい。

ほんと、やめてほしい。そう思うことがたびたびある。

おそらく、あいまいで省略の多い文章というのは、何か念頭に特定の人があって、そのひとにだけ分かるような、多くは皮肉な意味をこめた文章であるのだろうけれど、そういうことはメールのような私的な場でなされるべきことではないだろうか。一般論を装って特定の個人や特定の振る舞いをけなすような文章を書くべきではないし、特に、特定の人や場合を対象にしているのに、第三者に説明がなかったり、固有名詞が意図的に抜けている文章を見ると、本当に腹が立ってくる。

そして、こういうある程度、理解するためには憶測を要求する文章(当事者以外は十分な情報を持たないのだから、当事者以外が理解するためにする深読みは必然的に憶測になる)には、そういう文章を書かない人にも弊害を及ぼす。つまり、一般論や関係ない話を深読みされないように、誤解されそうな状況では、誤解されそうな一般論をできないのだ。

ここでちょっと飛躍するけれど、ぼくは本当に日本のあらゆるものが意味を持ってしまうという文化が嫌いである。ぼくは、基本的には、明示的にいわなかったことは、たとえどれほど意味深であっても無視する建前にしている。明示的にいわないということは、理解してもらう権利がないのだと考えているからだ。だから、明示的にいわなかったことをたてにして、何かを要求すべきではない。皮肉が理解されなかった場合、おろかなのは、皮肉を言ったほうだ。ネタにマジレスかっこわるいという考えこそ愚かしい。ネタには徹底的に、過剰なほどにマジレスすべきである。相手が嫌というまでマジレスするのだ。(ちなみにマジレスというのはわざと面白くするためにいったことに本気でいったと思って返事をすることをさす)

特定のことをさしているらしいのに、それについて読者に説明しないのは、文章を貶める行為だと思う。文は理解されるためにある。理解するための情報が文中にあるのなら分かりにくさはある程度擁護できるが、その文章だけでは理解できない文章で、その文章だけでは理解できないことについての、たとえば固有名詞といった手がかりさえあたえないような文章は、このうえなく性格が悪いと思う。

というか、まったく今日はじめてその文章を読む、素性の知れない人にとって意味をなさないような文章は、よほどの必然性がない限り、だめなんじゃないか。(もちろん、ぼくはここでだれでも読める場所に置かれている文章のことをさしているのである)

つねに不審で素性の知れないよその人の立場ぬきにはぼくはものを考えることができないのだ。