ありもしない恋の話をしよう。情熱とは北村透谷の作った言葉だとかそんなことはどうでもいい。ひとは恋をしていなければならないなどと命令形でいうなど論外だ。恋をしているときれいになるなどと微温的なことをいっているのはどこのどいつだ。ありもしない恋の話だ。すべての恋の物語はありもしないことについて語る。情熱は蜃気楼を現実にする。現実のように感じさせるのではない。現実にするのだ。生きられた幻想とは現実の別名ではないか。だがそんな推察、憶測、意見、それが何だ。否定、否定、否定、そう、「言葉、言葉、言葉」だ。ああ、愛することなしに一瞬たりとも存在できるものか。存在とは愛することの別名だ。別名は神の恩寵への反逆か、それとも随順か。われわれは生存の限界を憎んでいる。愛がその臨界を超えると信じたいがために? だがそれは本当か? そうだ。ありもしない恋の話をしよう。ぼくは痛切に、そう痛切に、だ。痛切にその日のエゴイズムを悔いる。エゴイズムを悔いることなどいまどきはやるまい。情熱とはメランコリーではない。情熱とは自意識ではない。情熱とは狂気であり、イデアにとりつかれ、永遠とダンスを踊り、祝福と孤独を取り替えることだ。そうだ、僕のあの日のエゴイズム。エゴイズム。なんという言葉だろう。エゴとイズムがむすびつくことの醜悪さ。ぼくは無償の愛を知っていたはずだった。恋を知り染めたとき、愛することはきみの喜びを享受することにひとしかったはずだ。それが、ああ、すべての一瞬は取り返しがたく、すべての過去は凍りつく。戻ることのかなわぬ時間に繰り返し、繰り返し立ち戻ることの矛盾と苦悩。なんということだろう。わたしは、いつしか、愛されないことを恐れた。だが、きみよ、愛することはきみの喜びだったはずだ。そのひとの微笑のほかにいかなる褒賞もなく、そのひとのこころのほかにこころはない。魂を売り払い、誇りを投げ捨て、ただ一瞬のきみの微笑を獲得することこそが愛だったはずだ。愛されることを求めた瞬間、エデンは壊滅し、バビロンがあらわれる。すべては堕落する。絶対の愛もまた絶対に堕落するのだろうか。歌よ、世界の背後に流れるアリストテレスの天球のたえなる音楽よ、せめて彼女の現在を祝福せよ、ぼくの惨めなエゴイズムとメランコリーを笑え、自虐など存在の余地はない。わたしは自ら虐げるまでもなく天によって、あの大いなる神の軍勢、おそるべき天使たちによって罰せられている。「美は恐ろしきものの始まり」そうだ。それでもひとは愛するだろう。愛すること抜きに存在はない。存在とは……そう、情熱の一形態に他ならない。愛の中で投げ捨てるべきものを獲得するがために日々の塵労はある。幻影は未来にはない。ただ現在のまばゆいかがゆきを。そうだ、それはありもしない恋の話。わたしは恋をしたのだろうか。それは恋なのだろうか。それは狂気にすぎなかったのではないか。すべてはおきなかったのではないか。なぜなら、それはおきたこととしては、かがやかしすぎる。それは信じがたい永遠の持続、精神の、だが、この甘く、そして恐ろしい悔い、そうだ、すべてを終わらせたのは、それでもやはりわたしのエゴイズムだったのだから。

そのひとの白い手を思い、その空よりもはれやかなひとみを思い、その痛みを隠したやさしさをおもい、そのゆるやかで的確な知性を思い、怯えとそれにうちかつ強さを秘めたちいさな体を思う。もしも人間の想像力が、天使というもののすべての属性を現実の中にえがきだすことができるなら、それこそそのひとの似姿に他ならないだろう。

もしも世界が終わるなら、そのときは君に口付けし、こういおう。いまこのとき、世界が終わることに感謝をしよう。そうでなければきみにあえずにいたかもしれないから。

はかなきものよ、空のうち、大地のうち、老いたる大海のうち、あなたにまさる宝石はなく、夢見ることはただのあなたの美しさと愛らしさの断片を思う真似事に過ぎない。夢という夢があなたの名前を覚えるように!

だからこそ、いつまでもわたしの情熱は悔いつづける。なんということだろう。あなたに悲しみを送った、おろかな愛を求める、ぼくのたえがたい、罪を。いかなる神にも祈るまい。いかなるものも求めまい。ざんげなど必要ない。道徳は犬にでもくれてやれ。ただ、その日の愚かさだけが悔いとしてぼくのこころをさいなみつづける。

繰り返し、繰り返し、ただ、そのことばかりを。