あーでも。

もちろん、真理の土俵に持ち込まねばならないという強迫観念こそ問題なのだ、というのも事実です。だから、上述のことは、ただしさや普遍というスキームで考えることが意味のない場面にはあてはまりません。この差異はどこにあるのか。

意見が統一されなければならない、というのは批判されるべきです、もちろん。しかし、自分で勝手に信じている場合、そのひと個人のなかでは意見は独裁的に統一されてしまっているわけです。

一般性のない真理というのはだから、ある、という言い方をしてもいいかもしれません。もちろん、それを真理と呼ぶのはある種のジョークとしてである、という条件で。

たとえば、ある音楽が美しいというのは一般性のない真理です。なぜならそれは真理ではないからです。ではそれは事実でしょうか? 違います。それが、美しさについての一般的な観念、イメージを前提にしていっているなら「事実」でありえますが、今の場合はそういうことではありません。