島宇宙化 先回りすることの問題

http://www007.upp.so-net.ne.jp/ajaproj/nikki/0308c.html

いつもウォッチしていただいてありがたいとおもっているんですが、日記の構造がアンテナで捕捉できないんですよね……このさいakiaryなんかにしてみてはいかがでしょう。ほかのツールならツールにデザインを強いられちゃうけど、akiaryだといまのデザインとほぼ同じにできると思いますよ。余計なお世話ですけど。

それはともかく。

あの文章を書いて、うーんまったく近代主義者な物言いだなあとおもって、本当に現代思想の本を好きでよく読んだ時期があったのかとわれながら疑ったりするのですが。

多分こういうことだと思います。

1 これが真理である、という発言は、原理的に相対化されうるし、絶対ではありえない。その意味で、客観を疑うのには根拠がある。普遍性や真理は、根拠として使用されるとき暴力となる。すなわち、啓蒙の弁証法の視点。

2 他方で、真理や普遍を追究しないということは、わたしたちがすでに真理や普遍ぬきでいきられない、すなわち、真理や普遍の内部にいる以上、暗黙のうちに、個人的、主観的普遍性、真理を温存することであり、その意味で、相対主義とは、特殊的真理を特殊的領域に限定して絶対化することでしかなく、一般的真理を追究する営為が、他者によって批判されるという回路を持ちうるのに対比して、より、じつは真理という理念を絶対化している。

このように考えることで、形而上学批判と相対主義批判をつなげられると思います。

言い換えます。

トムがジェーンに正しいことを強制する。あるいは理性的に振舞え、と強制する。ここに暴力があることを見るのはたやすい。まずはここを押さえます。この場合、ジェーンがトムの言ってることは正しいと同意しているものとします。このような状況に潜む暴力を批判することはじつは結構難しい。その点をめぐって、現代思想の有力な展開があったんだろうと思います。あとから、トムのいってることが間違っていたことがわかったとか、トムがヒステリックに押し付けた、というディティルがあれば、批判することは簡単になりますが、むずかしいのは、そうしたことがおきなくても、この状況そのものに潜む暴力を明らかにすることです。

それは踏まえた上で、トムがジェーンに自分にとって正しいことを強制しないが、相手にとって正しいことにも関心を示さない、という状況を考えます。この状況において、ジェーンがトムにジェーンにとって正しいことを強制しようとすると、トムは「それは間違ってる」といわず「そんな話はやめよう」といいます。これは一見心地よい状況です。

(しかし! トムがこのような状況では多くの場合、ただしさ以外を根拠にして、たとえばそれが「自然だから」「手間がかからないから」「ならわしだから」という理由で自分にとってただしいことを結果として強制できるのだ、ということを想起すべきです。もちろん、わたしはフェミニズムのことを考えています)

しかし、トムもジェーンも自分にとっての正しさを疑うことも変化させることもできません。そして、問い詰められれば、やはり自分にとって正しいことを答えるでしょう。相対主義者は、何が正しいかについて答えを持たないわけではありません。ただ、それが他者にとっても正しいと主張しないだけです。しかし、あることが正しいことであると主張する、考えることは、不可避的に、暗黙のうちに普遍的にただしいと考え、主張することです。特殊的な真理というのはないのです。たとえば、わたしが、地球は丸いと思うといったとき、それは、一般性のない真理として、特殊な真理として語ることはできません。ひとに強制する気はない、と幾らいい、考えていても、もしもわたしが地球は丸いと本当に考えているなら、実は誰にとっても地球は丸いと考えているのです。つまり、強制しない、というのは説得の行為にかかわるだけで、わたしが、他者は間違っていると考えることをやめることはできません。わたしがあることをただしいと「本当に」考えているなら、それと矛盾していることを間違っていると考えることは不可避だからです。ここでは、普遍は、暗黙のものになったために悪質化しています。顕在しないためにテストされないのです。これは、引きこもった真理です。

もちろん、わたしは間違っているかもしれない、と考えることはありうるし、それはある意味で重要なかぎです。しかしこの懐疑は、むしろわたしを駆って対話へ駆り立てるものであって、対話を拒絶する引きこもった真理を温存する態度とは矛盾するもののはずです。

ですから、お互いに好きなことを信じようや、それがリベラルな態度だろ、というひとは、じつは、自分の真理に懐疑を抱いていないのです。ここには裏返しの客観が支配しています。

真理は「存在」はしない。しかし、真理を共有しようという過程そのものによってしか、真理を解体することはできない。そういうことなのではないかとぼくは思っています。

プラトンのディオティマ的にいえば、対話とは結婚なのです。いや、女である、というべきでしょうか。問題なのは孕むことです。わたしたちが真理への欲望から解き放たれることも、真理を暫定的にでも決定する実際的必要からも逃げられないとすれば、真理について話をしないことは、自分の真理に幽閉されることにほかなりません。

気に入らないのは、すごいがんばって議論して出した結論も、議論しないで自分で勝手に信じてた結論と、絶対じゃないという意味では同じだろう、というやる前からの先回りの相対化、シニスムです。これこそが、島宇宙化の持っている害ではないのか。絶対でなければゼロというこの極端さと先回りのメタ視点、それが、真理や普遍をあしき形でむしろ生き延びさせているのです

追記。ここですごいがんばって、という言い方をしているのはよくない。問題なのはそういうことではない。そうではなくて、対話がひとつの誘惑や遊戯となり、生産になること、要はそうしなければ存在しないであろう何者かの誕生に立ち会うことへの歓待の念こそが重要であるはずなのです。