幽霊の続き


ネット上の対話においてテレパシーのような何か別の媒体が存在するとして、それがなぜ物質ではないかと言うと、その媒体(テキスト外のコミュニケーション)について、誰にもわかるようなかたちで指摘することが不可能だからです。それがなぜ精神や心理の産物でないかと言うと、一部の人とはその存在やその属性について同意を得ることが可能だと思うからです。
うーん、こういう物言いがされてしまうということは、完全に認識論と存在論がずれていると思います。というのは、争点は存在論であるべきなのに、徹頭徹尾、認識が理由付けに出てきているからです。

認識の対象として共有できるかどうかは、それが、実在するかどうかとは関係ないでしょう。認識として共有されることが問題なのはむしろ、存在ではなく「事実」でしょう。

誰も認識できなくても、実在するものは実在するし、しないものはしないでしょう。

たとえ誰にもわかるように指摘できないとしても、それが事実、経験されるものなら、すくなくともそのように経験される原因は物質的に実在します。そのことの実在性に、それがひとに説明できるかどうかというような、認識のレベルでの問題は無関係です。誰にでもわかるように指摘できない、という理由でものごとの実在性がおびやかされるとしたら大問題です。普遍化できないということ、認識として他者と共有できないということは、事物が存在しない理由にはまったくなりません。それは単に「社会的事実」になりえないだけです。

同様に、認識の対象として共有できる、一般性を持つということは、その認識の対象が実在することの理由にはまったくなりません。それはやはり、社会的事実になるだけです。集団的に、実在しないものを経験することも信じることも見ることも感じることも完全にありえます。そういうことが理由で事物が存在することになるのであれば、これも大問題です。集団的主観が客観になってしまうことになります。

社会的に共有された事実、認識として存在する、ことは、それが実在することとはまったく無関係です。あるものが実在するならば、認識主体がこの世に存在しなくなっても存在するでしょう。

いいですか、ぼくは存在というとき、存在の表象ではなく、存在のことを言っているんです。わたしの「見え」はわたしを見る人がいなければ存在しないけれども、そのことはわたしがなくなるということにはならないでしょう。それと同様に、存在の表象、認識は認識者に依存するけれども、そのことは、存在するかどうかが、認識者に依存しているわけではまったくありません。

コミュニケーションの例そのものについていえば、単純にわれわれがテキストにどれだけの情報がのってしまっているか、そしてその情報がほかの情報とくみあわされることで、どのような情報が生成されるか、について、知らない、あるいは過小なイメージしか抱いていない、ということでしょう。風が吹けば桶屋が儲かるgoogle:バタフライ効果ではありませんが、累積効果というのはけっこう予想外の情報を創発するものですよ。この世のすべての事物は友達の友達みたいな形で間接的に相関しており、情報や効果が波及する経路は無数にあります。また、意図とは違う情報がテキストに織り込まれることは普通です。そして、偶然の一致に意味を見出してしまうのは、人間の生得的傾向です。超自然的なものを仮定しなければ説明がつかないというとき、ほとんどの場合、物質に何がなしうるか、物理の範囲で何がおきうるかについて、非常な過小評価がおこなわれているのです。それは手品が不思議なのと理屈は同じでしょう。