主客未分

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20030903#p08
うーん、ちょっと違うんですよね。
ぼくは、物質と心理という対比で考えていたので、主観客観という対では考えていません。ぼくがいっているのは、精神も心理も物質的現象である、ということです。幽霊が、心理的、精神的な産物なら、それは、そういうものとして物質的現象である、ということです。そういう意味で、わたしの立場は、精神と物質の二元論ではなく、一元論です。精神は、物質の世界のなかの二次的構造物である、ということです。別の言い方をすれば、物質の外部はない、そういうことです。精神的なものとは、物質の運動の、物質同士の関係の仕方の特定のシステムのことです。精神とは機械である、といってもいいでしょう。

その意味で、心理や意識の秘密を、そのような物質からなるシステム、機械としての精神の動作の問題として考えることで取り落とされる問題とは具体的には何でしょうか。ぼくには思いつかないのですが。

たとえば一部の人にとってしか存在しないリアリティがあるとします。その場合、その人たちはなぜそのようなリアリティを経験するのかには、必ず理由があります。その意味で、客観的根拠をもたない主観的妄想など存在しません。ですから、主観か客観かという選択はわたしの意見ではありません。

さて、そうではなく、外界がわたしの意識から独立して存在している、という認識の手前からはじめるのだ、という場合、これはデカルト的懐疑や現象学にかかわる問題になります。

しかし、このレベルでものを考えるのなら、経験されるということと存在する、ということの区別をする意味がありません。この懐疑のなかでは、存在するという語は認識され経験されるというのと同じ意味しかもたないからです。

ですから、わたしがくりかえしお聞きしたいのは、存在する、というのを、どういう意味でつかっているのか、ということです。幽霊が経験されるということを、存在するといわねばならない、そしてしかも物質としてではない、というのはどういう場合ですか。そういう場合が、論理的にありうるのでしょうか。幽霊の存在が物質の存在とどう区別されうるのか。

具体的に想像してみてください。原理的に、それは物質的にではなく、しかも単なる意識の対象としてではなく、存在している、という証拠になりうることをひとつでも、あげられるでしょうか。原理的に物質的現象ではありえない現象というのをひとつでもあげてみてください。ぼくの主張は、そういうものはない、ということなんです。

幽霊が、精神や心理の産物ではなく、外界の存在者であり、かつ物質的存在者ではない、というとき、外界に存在しているが物質的存在者ではない、とはどういう意味か、純粋に、定義不可能に見える、ということです。

あとこの問題と真理に関する問題がどう絡むのか、ぼくには正直わかりません。あまり関係ないように思うんですが。