天地のうちには、ホレーショー、おまえの哲学では、はかりもつかぬことがある

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20030903

結局、ぼくはむしろ、物質って何だろう、という不思議に考えがいく。あるというのはどういうことか。物であるとはどういうことか。あるということと、物であるということはどう違うのか。同じなのか。物質に定義ってあるのかしらん。それがむしろ知りたい。実際、物質ではない、とはどういう意味なんだろう。物質であるとはどういう意味なんだろう。

「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」

むしろ幽霊がいて、死後の世界が神秘主義者のいうようなものであれば安心だ。そうだとしたら、死は理解可能なものだから。あの世にも、この世と同種の秩序があるということになるのだから。

天国に蓮の花がある、といわれて、植物学者は、「おいおい、ハス一般なんてものはないぜ、いったどの種のハスだろう。ハスだけが咲いてるんだろうか、植生はどうなってるんだ?」ということを考えずにはいられない。もし、そういうハスではないというのであれば、それは実はハスなんかではないんだろう。

ホレーショーの哲学とは、死後の世界を信じることだろうか、信じないことだろうか。死を恐れ、死をまったく意味不明な出来事とみなし、なにひとつ死について知ることはできないとおののくことは、マクベスの城のドアをたたく恐るべき真夜中のノックに耳を澄ますことに似ている。

ドン、ドン、ドン!

実際、レトリックではなく、物質とはどういうものか、物質であるとはどういうことか、というのは、しんから知りたいことのひとつなのだ。

意識の闇は深い。そこにはなにがうずくまっているかわからない。だが、それは「もの」のただなかにあって、意識と物との連続性こそが、井戸の深さと暗さをあかしだてているのではないか。むしろ、物と心の縁が切れていたら、精神は、透明で理性的な明るさの中にあるのだろう。だが、精神はなかばは物にほかならないから、それはくらいのではないか。

花田清輝が、鉱物礼賛の論を書いていたような気がする。物への憧れは死の衝動なんだろうか。いきていることがなかば物であるということであるということは、われわれはつねになかば死んでいるということだろうか。生とは死の部分であり、意識とは無意識の部分であり、目覚めは眠りの一形態なのだろうか。