essaさんにいくつかリアクション

えーと、とりあえず、無茶いわないでくださいよ、とぼかあ主張したい。

この対話は機械としての精神には不可能というのが、直感としてであれ、ものすっごい無茶だと思いますよ。まず、それが、非物質的経路の問題としてなら、ぼくもあなたもテキストから読み取った意味以外の情報を前提にしてしゃべってなどいないし、そういう経路を仮定する必要を推測させる萌芽すら、ないと思います。ちょっと具体例をあげてみてください。それは、あなたがぼくが書いてない個人情報を知っているとか、そういうことならまだ納得しますけど。

精神の思惟能力の問題としてなら、別にネット上の対話であるかどうかは無関係で、機械は思考しうるか、という古典的な問題ですね。第一に、心身二元論は、機械の中の幽霊、あるいは脳の中の小人という古典的難問を持っています。ひとが考えることができる理由を、心という実体が考えているからだ、と答えることは、では心はなぜ考えることができるのかという問いを引き出し、以下、無限に続きます。たとえば脳の中の小人というのは視覚についていわれたことですが、見ることができるのは網膜に映像が映るからだ、と答えることは、それを脳が見ているのだと答えることで、やはり脳を、網膜に映った映像を見る小人と考えることに等しく、説明になっていないわけです。考えるということを説明するためには、それ自体は考えていないものが組み合わされることで考えるようになる転移点を説明しなくてはならないのです。意識を物質から独立した実体と考えるというのには正直、めまいがする思いがします。ちょっと、いまどきほんとうにそんなことを大まじめに信じている人がいたのか、と別に侮辱するつもりはないのですが、かなり本気でショックです。

AI研究の現状についていうなら、AI研究者は脳とくらべて自分の現在持っているシステムがどれほど貧弱なものかよく理解してますよ。少なくとも現状を基準にAI研究の可能性を判断するのは、三輪車でバットモービルにできることを判断するよりももっと懸隔の大きい推測だということは理解してください。

というか意識の不思議とおっしゃいますが、意識が物質でない理由、あるいは意識がある種の機械でない理由として、意識がすごい(意訳)ということをあげておられますが、ぼくとしては反問したい。ということは、あなたは、物質にはできないことがある、と考えているわけですが、物質にはできないこととして何を考えていますか、そしてそれはなぜですか。ぼくには、機械や物質にはこれこれのことができないと聞くたびに、なぜそう思うのか、明確な理由を聞いたことがありません。それは理由もなく、物質に特定の限定を与えているからでしょう。まずその前提、物質へのイメージ、限定を明確にした上で、物質という概念にそういう限定を与えることが正当かどうか問うべきです。

あと、物質は社会的事実ではない、とぼくは主張しておきます。ひとがそのなまの経験のながれから、外界というものを抽象するのは、意のままにならない独立のものがあることを経験によって強制的に認識させられるからです。これはまさしく現象学の課題。

つまり、ひとことでいうと、意識がどれほど不可思議ですごくても、そのことは物質のすごさを説明するということでしかない。意識にこれこれのことができる、ということは物質では説明できない、と主張することができるためには、まずあらかじめ、物質にはこれこれのことはできない、といえなければならない。で、その前提となる、物質にはこれこれのことができない、という主張が、まったく立証も説得力のある説明もなされていないし、ぼくには原理的にそういう立証はできないように思う、そういうことです。

なお、物質が社会的事実ではない、とぼくがいっているのは、ぼくが、物質というのを、経験を存在させる実体的基盤としての外的存在者の意味で使っているからです。そもそも、社会的事実という意味では、物質を経験することなどできませんよ。われわれは、物質の効果を経験できるだけです。意識が経験できるのは、もちろん、意識における物質の効果だけです。つまり、それが、表象ということです。わたしたちは、知覚データしか経験することはできず、ものを経験することなどできません。ですから、物質は、経験の対象ではなく、経験の存立基盤です。そしてもちろん、わたしは意識も物質の特定のシステムの効果と呼んでいるのですから、つまり、物質の効果としての意識が、別の物質による意識への効果としての知覚データを経験する、そういうことです。それが、経験も意識もともに、物質の二次的、上部構造であるという意味です。

ずれのなかにかなりの部分、essaさんが物質というのを物質の表象の意味でつかっていることにあるように思いますし、また、essaさんが唯名論的な認識論によっていることもあると思います。つまり、存在論を認識論に帰してしまう論理です。

わたしはカント的なもの自体を仮定することは不可避だと考えます。でなければ、わたしとあなたが、同一の現実を共有しているといえる根拠がない。わたしとあなたは現実の表象を共有していないけれども、同一の現実を共有している。それが、もの自体を仮定することの意味で、それこそが、物質というものや存在という、認識の背後の現実(認識としての事実ではなく)を考えなければならない理由です。

物質という言葉はこの意味で、無内容というか無規定な概念です。無規定な概念(つまりそもそも意味内容の範囲が明確に限定されていない言葉)にできないことがあると主張するのはかなり論理的に無理があるのではないでしょうか。

くりかえしますが、こんなすごいことは物や機械にはできそうにない、という論法は、端的に無茶です。物や機械というのは、きわめてひろい概念で、その定義からしてできない、といわないかぎり、そのような物言いは無意味です。わたしとしてはそういう論法には、しかし実際にできてるじゃん、とこたえるほかありません。ぼくはさいさん、まさにこの点をついてるわけです。ここが明確であればいいんです。物でないとはどういうことか? 物にあることができないと主張するとすれば、では物にできないことはどういうことができないと考えているのか? そしてそれはなぜか? この問いに答えるのは、最低限の義務だと思います。

念を押します。わたしは物を社会的事実として定義しません。物自体として語っています。社会的事実というものが存在するためには、複数の意識が認識を共有すること、最低限、認識の対象が同一であることが必要です。この必要は、認識の背後になんらかの共有のものがあることを必要とします。これがもの自体です。つまり、わたしたちが、同一の世界、同一の現実について語っているといいうるためには、あるいは、複数の意識が関係を持つことができるためには、物自体としての共有現実が論理的に要請されます。もちろん、ニーチェ以後のわれわれは、この物自体としての共有現実としての世界が、認識ぬきにありうるとか、それ自体表象であるということはできません。これは、現実は事実ではない。現実は複数の事実として認識されうる。しかし現実は事実ではないから、より現実に「似た」事実というものはない、そういうことです。これは像の認識論を否定しつつ実在論を構成する試みです。現実の像は複数あるけれども、現実そのものは同一。しかし旧来の認識論のように、現実そのものも像であると考えると、いちばん現実とそっくりの像というものを考えることができて、それが真理ということになるけれども、現実そのものは像ではない、そういうことです。デリダ的に、この共有現実、物自体は、むしろ認識の効果であると主張してもかまいません。重要なのは、認識や意識同士が関係を持ち、同一の対象について語っているといいうるためには、認識だけでなく、その基底的構造として物自体が要請されるということです。

で、それをわたしは物と呼ぶ。またひとが通例の用法でいう物という言葉も、この意味での物を実際にはさしているとみなしてよい、そうわたしは考えているということです。