かがみ

 テレビはかがみなのだ、という思いつきが降りてきたので捕まえた。テレビがかがみなのはそれが照明のなかで見られるから。だからそれはマジック・ミラーとしてかたられることをゆるす。そこからふたつのことが云えるように見えた。かがみなのだから、テレビを見るときひとは自らの顔を見ている。そしてつぎに、マジック・ミラーなのだから、テレビを見るときひとは向こうから見られている。気持ち悪い。

 何かが間違っている。

 間違っているのはわたしのThoughtなのか、Televiか。混濁した思いつきはむしろ廃棄されるべきなのかもしれない。死の衝動への近しさが文に退屈を浸す助けになっているのだろうか。のろのろと進むのを拒む言葉の退屈さ。

 しかし考えるな、まずタイプせよ。格言はつねに気持ちを落ち着かせる。意味するもの、意味されるものという対比が現象学に由来することを知って驚いたりしているうかつさ。存在と存在者の違いはノエシスノエマからきているとかそういう話。コトとモノの違いは作用と対象の違いなのだといわれてみるとそういえばそうだ。

 エチカ。「『自己原因である』ということで私は、その本質が現存を含意する、つまり、それがその本性から云って存在している形でしか考えることができない、ということを意味する」

 定義上存在しないことが考えられないものとは神のことである。という町のうわさ。卓越的に必然的な存在者とか、そんなの。

 しかしぼくにとってないことが考えられないのはぼくだから、ぼくは神である、はずはないな。述語の連鎖によって同一性を構成してはいかん。長いすに寝そべって自由連想するはめになりかねない。

 インヴィジブル・マンが見えざるものとしての数に入らないものを語ったとすれば、むしろいま心に懸かるのは隠れ得ないもののことだ。隠れ得ないがまた、数えられもしないもの。個人としては見えず、数えられない。だが、ある類のメンバーとしては隠れ得ない。隠れることによってはじめて、見えるものとなる。そういうありようにとって、見出されることは隠れ得ないことに過ぎない。見えることと見出されることの一致と不一致。