対象関係論

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なかなか充実したページを見つけた。まだよくしらない領域なのでうれしい。
でもやっぱり対象関係論は面白いです。あとあいかわらずラカンがわからないので勉強中。
想像的なものは表象であり不在ということがない、ということらしいので、それを英国学派の枠組みで考えていくとどのあたりになるのだろうか。

鏡像段階とのかかわりで、ビオン? だかの錯覚論を考える。

錯覚というのは自分の欲望がそのまま現実に満たされる、満たされた状況において、自他の区別が知覚されていない、隠蔽されている状態。魔術的身振りの段階、儀式の心性とは、この欲望の満足が、呼びかけとして意識されていないことが違う。魔術的身振りの心性では、欲望は、儀式的な身振りによって実現する。しかし錯覚においては、欲望することが満足することと同一視される。この場合、この快は現実のものである、現実の支えがあるという点で幻覚的満足とは区別される。したがって、錯覚は、欲望を読み取って、欲望と満足の間の遅延を表面化させないうちに満足させる主体を前提とする。幼児においては母親的養育者である。幻覚的満足においては、快の経験の表象が再現されることで現実の裏づけなしに実際に快が幻覚的に経験される。

錯覚の状況にあるとき、幼児は、自分の意識、欲望が、外界を直接左右する、外界と関係を持っている、と考えている。ある意味で、これは関係妄想の根といってもよいだろう。セカイ系もこういう心性と関係を持っている。くりかえすけれどもこれといちおう魔術的身振りの段階との差異はおさえておくべきだろう。魔術は操作であり働きかけであって、対象意識をもつ。

さて、鏡像段階をここで考える。二者関係においては、すべてがわたしか相手かに区別できるということは、いかなる場合でも相手の行為を、わたしの行為の結果として解釈可能だということだ。相手の行為をわたしの行為によって説明できないということは、三者関係になってはじめて可能である。説明できない、という意味での隙間は、二者関係では存在しない。

ラカンはたぶん、発達論的な語り方をしないからわかりにくいのだろうなあ。