社会性と動物性 小泉義之

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/031013.htm
(via http://d.hatena.ne.jp/saroma-san/20031019#p7 )

関連するかどうかわからないが、ぼくも社会構築主義の限界ということは感じる。というか、ぼくが人類学で文化唯物論とかに感銘を受けたり、科学主義者だったりそういうところからくるのかもしれない。文化的振る舞いというのは、文化的社会的振る舞いであると同時に、適応論的にも決定されているのだということを強調すべきなんじゃないか、ということ。

たしかに文化は権力によって自然化されるのだが、だからといって、社会的にだけ社会的なものは決定されているわけじゃない。社会的なものは社会的なものと、非社会的な環境的なものによっても限定されている。そういう意味で、適応論的な観点はつねに必要なんじゃないか。あるいは、たとえば理想的対話状況が成立するためには、空腹ではなく、病気ではなく、デバイス的に発話ができて、というようなインストルメンタルで身体的な、装置的な準備的条件がいる。

これはむしろ「社会的」のほうに引き寄せて無生物的、無機的なものとの社会的コミュニケーションの次元といってもいいかもしれない。