コミュニティと自由

ヴァーチャルコミュニティーの自己言及的リアリティ
http://ellington.gel.sfc.keio.ac.jp/nsly/mt/ns/000760.html

この辺も結構、実践的な問題として考えざるを得ないところ。個人的には降りる自由とか、解離の権利と、対話主義的アプローチはどう整合するのか、しないのか。コミュニケーションやシステムへの寄与の強制は、それが自由を擁護するためと称するものでも抑圧的でありうるだろう。しかしまた、なんらかのコミュニケーション空間なしには、たとえば独占禁止法のない資本主義みたいな自由が自己否定してしまう事態が起きる。むしろ、バフチンの内的対話のように、孤独や沈黙をコミュニケーションのひとつの形式として考えることだろうか。公的にコミュニケーションとして公認された形式を逃れる、あるいは無意識的な、非人称的なコミュニケーションの次元を考えること? 実際、議論しなければならない、社会に参加しなければならない、という言説はハーバーマス的な説教くささをまぬかれない、という感触はあるんだよなあ。ただ、非人称的なコミュニケーションの次元を考えたところで、それが直接、解離の権利とつながるわけではないわけで。それに、参与のはしごがまずはずされているという事態をどうにかするという問題も絡んでくるし。もうちょっとちゃんと考える必要あり。ただ、ここで出てきた「倫理の市場」がある、という指摘はぼくも面白いと思う。つまり、にちゃんろんと微妙につながるんだけど、議論を経ない多数の一致を重視する多数決主義というのはかなりある。(それはべつにオフラインでも同じだ)そこには議論を経ていないからこそ、その一致には根拠があるのだろう、という想定がある。このへんの問題とプレイヤーへの倫理的要求度がオークション的に高まるプロセスとはつなげて考えられないだろうか。

キーワード、自由主義 リバタリアニズム 共同体主義