人間らしさ

たとえばのざきさんのいう人間らしさ、人間は、坂口安吾ドストエフスキーが人間というときの人間であって、ハイデッガーフーコー人間主義批判の文脈での近代主義的な理念としての人間とは違って、可塑性と矛盾性をもったものとして、人間主義的なあらかじめの規定への背反をはらまざるを得ないものとしての人間をさしているだろう。正義はそれが引き受けられるかぎりで、自分にとっては絶対的であるほかない。というか、正義に絶対も相対もないのであって、ただ、正義として現前する。そこで、その正義とどう向き合うかが実存的な意味での倫理的問題を構成するのであって、もし相対的正義としてしかその正義を認識していないなら、それはそのひとにとってそれは単に正義として認識されてないだけだ。これは信仰と似ている。なかば信じることはできない。なかば信じているのなら、それは単に信じていないのだ。この意味での絶対性は、正義に人が呪縛されることを意味するものではない。正義であることを信じながら、それをなすことにさからうことが「よいことだ」と感じることがありうるのであり、(フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の有名なせりふ「時には間違ったことをするほうがいい場合もある」)また、不意にある正義が自分にとって正義ではなくなることもありうる。そのかぎりで、また、この世の事物の「相互関係」にかかわるかぎり、その適用において正義は相対的であるほかはない。この二面はべつに矛盾しているわけではなくて層を異にしてひとつの事柄を構成している。絶対的正義なんてないというのが、不動の正義なんてないという意味ならまったくそのとおりだが、そうであるからといって、正義が、それを内面化して引き受けている個にとって絶対的でなくなるわけではない。自分にとって定言命法的な強制力と権威をもたないものであるなら、それは相対的な正義なのではなく、単に正義ではないのだ。日本的な「建前」である。では正義の実存的な意味での絶対性を否定することで、要するに実際には正義一般を否定しているひとが正義抜きでいられるかというと、そうではない。何かを積極的に語ること、普遍的なものとして提示すること、何かを理由を持って選ぶことは、すでにしてそうすることをただしいとみなす観念ぬきにはいられない。そうでないなら動物のごとくただ選んだということになるだろうが、人間の場合は、その場合でも、動物のごとくただ選ぶことが正しいという観念が介在せずにはおかないだろう。とりわけ、たとえば功利主義はまさしくドグマチックな正義の観念の実例といっていい。だから、正義の絶対性を認識することは、自分は正義の観念抜きにすましているという態度から自己のその正義に対して無自覚になることへの衛生学なのである。対話的に他者へと思想を開くということが、何事も半端にしか信じないということであるなら悲惨なことではないか。他者の思想へと対話的にみずからをひらくということは、むしろみずからの信条をぎりぎりまでとぎすまして内破するまでその可能性に賭けるということではないのか。そしてそのためにこそ、その信条がまさしく正当な批判によってほころびるときそれをびほうしてはならないのだ。