この項、批判として適切かどうか微妙なので撤回。


ちなみに主題、意味とレトリックが分離可能だとか、文法的言語学的形式性が芸術性だなんて、ロシア・フォルマリストでも後期にはいわなくなった認識だということは指摘しておく。とりわけ散文において、意味の社会的場による「汚染」を排除して作品の芸術性のみを確定することなど、できるはずもない。それは作品を政治的基準で、社会的ただしさで裁くということなのではなくて、そういう意味を作品が帯びているということも、作品の芸術性を理解する関数のひとつの変数として不可欠だということである。作者の意図も、その政治的効果や意味作用、社会的な意味作用も、テキストの不可欠な一部である。テキストの芸術性はそういうものもふくんだ諸要素の関係性によってきまるのであって、そういうものが、テキストの芸術性とイコールで考えられた過去の批評が批判されたからといって、そういうものを排除して「純粋な」芸術性を構想しようというのは、およそ形而上学的な空想でしかない。