前回の続き

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1 主体を乗り越えられていない云々、繰り返すけれども、近代の理念としての主体のことをいっているのではない。また、近代的な、主体であることを精神の本質としていきる態度のことを言っているわけでもない。人間は近代以前にも約束をしたり責任をとったりしてきた。今でもそうであるにきまっている。その場合、その行為を誰がしたか、という形で、行為の主語(subject)が求められる。そのこと自体は、別に近代限定の話ではない。主体が近代の呪縛となったのは、それが人間精神の規範的モデルとされたからだ。誰が、ということを仮定しないといけない文脈は、ことさら近代的な文脈に限らないし、もっとも日常的なことだ。誰が、ということを問題にするということは、厳密にはたしかにある種の法的フィクションであるけれども、それなしで、人間のコミュニケーションが可能であるとは考えられない。デートに遅れた相手に「もう」といって文句をいうとき、主体がこのコミュニケーションにおいては仮定されている。主体を精神や人間のモデルとして考える理念が乗り越え不能だとか、そんなことをいっているわけはない。ひとが多くの場合「主体性」を獲得するに失敗するというようなことはあたりまえのことで、その場合の用語法ではこの理念、モデルとしての主体のことをいっているのだろうと思うけれども、それだからといって、ひとが、行為に主体を想定しないで振る舞い、会話すること(すなわちあらゆる行為を主語なき出来事として考え語ること、たとえば英語で言えばIt rains.のような)が可能であると考えられない。もとの倫理的文脈に即していえば、行為の主体としての私なんてものは虚構で、私というできごとは状況や所与の関係の関数でしかないんだから、倫理的決断なんてしなくていいし、責任も感じなくていい、などと、考えることが可能だろうか。ひとが後悔するのも、悩むのも、迷うのも、主体であることと不可分な事実であって、そのことは時代性によって左右される類のことではない、といっているのである。(行為主体という概念抜きの世界では、そのような問題はそもそも存在しない)近代的な主体が批判されるべきなのは、行為についてなんでもかんでも主体の責任に持ち込み、主体がなんでもかんでも引き受ける、またそうであるべきだというような、強迫的理念としてである。人間はいいかげんでいいし、いいかげんであるしかない。それは主体が厳密にはフィクションであり、負荷なき自己ではなく、状況の中に、関係の中に主体的な統御が全面的には不可能な形で埋め込まれているからだ。しかし、そのことと、ひとが主体と手を切ることができるというようなことは、まるで別のことである。行為を主体によって説明し尽くす近代のモデル化が不十分であると同じように、主体の概念抜きで理解された行為の説明も不十分なものにとどまる。しかし、政治的に補強云々という言葉はどういう文脈で出てきて、何を意味しているのかまったくわからない。

2 一面的描写。依然同じ誤読をしている。近代的自我と並列していることからして、あいかわらず、物語内容の次元と物語行為の次元を混同しているとしか思えない。何が描写にリアリティを与えるかどうかなんて事前にきめてかかれるような問題ではない。一面的という言い方についてあえていえば、リアリティは常に多面的で特定の視点によっては十分に表現することはできない。それは現実が不可避的に持つ複数性、多重性からきている。一面的な、というのは、描写の視点にかかわる言葉である。物語内容的な次元で一面的な人間という言葉で何をいわんとしているか、きわめて不明確。人間性のある一面だけしかもっていないような人物を、そのような部分を裏切るものを持っているというような描写をせずに語る芸術というような意味でなら、そのような作品であるということは、それが一面的な描写をしているかどうか、ということとは次元が違う。そのような作品であっても、描き方が一面的で凡庸なら誰もリアリティを感じたりしない。一面的云々というのは、もしかしたら人間性豊かな人物として対象をえがかなくてはならないというようなとんでもない誤読をされているのではないかという気さえしてきた。多面的に書くということは、そのような固定観念的な意味で非人間的な人間が、作者の恣意的な創造=想像ではなく、現にいるのだ、という圧倒的リアリティを帯びさせる、という意味である。そしてそのためには、その存在のさまざまな側面を、ひとつの固定した視点からではなく、多重的に描き出すことが不可欠だ、そういうことをいっているのである。

3 現代風俗を無批判に肯定云々、それは批評理論について語っている部分であることは注意して読めばわかるはず。そのうえで創作についていえば、理論や固定したイメージは常に現実の一面しか捕らえることはできないから、芸術はそれを克服することが、リアリティをあたえ、あるいは他者の言葉、世界ではなく自分の言葉、世界を語るために必要になる。そのためには、それがどのような世相、風俗であれ、批評的な距離が必要。それはいわば他界の視線とでも言うべきものだ。

4 主題の持つ政治性云々。足し算的な意味で主題の持つ政治性も価値評価に含めるというようなことをいっているわけではない。(それなら結局政治的評価でしかない)政治的正しさの意味でそれが高く評価されるとか、政治的にこういう有効性を持っているとか、そういうことを価値に含めるとかそういうことをいっているわけでもない。単に、ある作品の芸術性は、その芸術の言葉が、ある政治的なものもふくめた、文脈のなかにあることと不可分な場合がある、ということである。たとえばえがかれたある人物の行為が感動的であるというような場合に、その行為が感動的である文脈として、その行為やその行為を語る言葉が巻き込まれている政治的なものも含めた意味の文脈の理解は不可欠であって、それと切り離すことはできない、ということである。


で、本来の対話に割り込むのも混乱を招く気がするので、また、的を射た反論がかえってきたとも思えないこともあり、この議論、ぼくに関してはこの辺にします。あと念のため、リアリズムの土台を抜かせば事情は変わる部分もある。つまり、とうてい人間がやらないようなことをさせたとしても、そうなることを誰もが夢見るというような意味で人間性に根ざしているならそれはリアリティがあるだろう。だから、リアリズム的な土台というのは、つまり、そういう人間が現実にいる、ありうるという前提でテキストがその人物を描写している、そういうものとして提示している、という前提である。現実にありうるものとして、人間を書くというジャンル的な暗黙の約束にのっかって書いているのであれば、そういうものとしてのリアリティは当然不可欠で、そうでないなら、たとえばファルスや寓話、あるいは、メタフィクション的なものなら、そういうことは一義的には当てはまらない、ということはいうまでもない。ただもちろん、そういう場合でも、個々の場面場面では、そういうリアリティが多くの場合は要請されるだろう。結局のところ、そういう場合には、そういうリアリズム的なリアリティの欠如をリアリティとするための、きちんとした手順を作品そのものの構造や前提に則して踏む必要がある、ということになる。