酒ではない、頬をぬらす愛のしずくだ。

ブースト、面白い。
http://www.radiat.net/

ビジョルドのヴォルコシガン・サガを読んでる。ISBN:4488698018
戦士志願は奇妙なほどラノベスペオペ風。ただし、文章の密度やSFとしての骨格ではぜんぜん違う。とりわけ、フリークスというテーマがあるのは見逃せないところ。ときどき泣ける。「喪の山」は感動するよ。

ラムとシャンプーは基本的には同じキャラクターである。これは明白。アニメ版のラムはもちろんシャンプーとキャラ的に違う。ラムがヒロインに成り上がらなかったら、というバージョンとして、らんまをみることもできる。だからなんだといわれても困る。

仏教について不思議なことがあって、解脱と慈悲の関係がわからない。仏教の存在論や認識論からは慈悲は出てこない気がする。解脱するのに慈悲は必要なのだろうか。一切皆空なら慈悲なんてしてもしなくても同じような気がするが。空の理屈と慈悲や利他行とがどう関係してるのか不明。もうそこは前提なんだろうか。

中世の日本では高僧は傲慢ゆえに魔道に落ちると天狗になることになっていた。

http://d.hatena.ne.jp/kosekei/20040330
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040408a

直接的な批判はできないけれども、この二つの世界観からの選択という枠組み自体が論点先取的に客観主義にもとづいているように思われてならない。

主観から独立した外界を仮定することを神の視点を関係付けるところにとりわけ違和感がある。ここには飛躍があると思う。神の視点はそれ自体ひとつの主観である。これは主観、および認識論によって存在論を基礎付けようとしている点で、独我論現象学的な超越論的な主観を持ち出す論法と同種の問題を抱えているのではないか。

また、同様の傾向として、独我論的な懐疑論から主観の存在を所与とするテーゼを引き出すところも気になる。デカルトへのスピノザだったかライプニッツだったかの批判で、デカルト的懐疑が証明しているのは、「思う我」の存在ではなくて、「思うということ」の存在である、という点があったと思う。「我思う故に我在り」ではなくて、「我思いつつ在り」だという議論。思うということ(現象)という所与から思う我を引き出すのはまったく疑わしい飛躍だと思う。現象を構成すると想定される主観がまず所与なのではなく、現象が所与であるというのが、重要なのではないか。

神の視点を仮定するということは、存在者を、神の認識の表象として理解することだろう。存在者が存在するということが、神の認識の表象が神によって認識されることへと対応付けられる。いいかえれば、存在論を認識論のモデルで理解することだろう。視点が問題になるのは、「像」においてだけである。しかし主観から独立した外界を想定するとき、かならずしも、外界を像として、表象として定立する必要があるわけではない。

つまり、わたしは客観性、あるいは「現実」は特権的なパースペクティブなのではなくて、パースペクティブが付与されるそれ自体はパースペクティブではない何かなのだと解する。客観性は可能なパースペクティブを限定する統制的原理であって、それ自体はパースペクティブではないだろう。

「この時代この場所に自分が生まれたことを説明できない」というのは弱い人間原理、強い人間原理の関連で非常に面白い考察があるところだとおもうけれども、むしろ、客観主義的パースペクティブからでもこの問いはある意味では返答できないのではないか。なぜなら「この時代この場所にこれこれこういう理由で生まれた何の某が自分である理由」は説明できないからだ。永井的な議論が主題化しているのはこの根源的な偶然性のほうだろう。これはもっとつきつめていえば、「今ここ」がなぜ今ここなのかという偶然性だろう。ここで、ある脳がある時点において、その時点を「現在」として認識するパターンを構成しているということは因果的に説明できるしそこには偶然性はまったくないが、それはこのことと同一視していいのか、ということがある。

要するにここを同一視するかどうかは真偽の問題ではなくて解釈枠組みの問題で説明能力から判断すべきという前提に同意できない。ここを同一視するというのは、問題の解決ではなくて単に問題の無視ではないだろうか。固有性や可能世界にかかわる偶然性の問題と因果連鎖や物理主義、すなわち認知科学の問題は独立した別の問題だろう。

しかしやはりここは人間原理に関する議論を参照しておくべきところかもしれない。
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/ad040407.htm