自由意志

http://d.hatena.ne.jp/Ririka/20040609#p3
メモ的に。

自由意志の問題と決定論の問題は違う。なぜか。

簡単。

私が次の瞬間何をするか決定されていない、ということが自由か? と問うてみればいい。自由であるとは他によって決定されないということであって、そもそも決定されていない、ということではない。

別の言い方をする。私の次の瞬間の行動が完全にランダムに決定される、とする。これは自由意志だろうか? 違う。

むしろこの場合、このように言いたくなる。すなわち、わたしの行動には自由はなく、偶然に対して隷属している、と。

ここから、次のことがわかる。自由の概念には自他の概念が前提として含まれる。そして、他によって決定されないということが自由なのであるから、あるひとが自由であるか、自由意志をもっているか、という問いへの答えは、自己および他者をどのように定義するかに依存する。

(洗脳や脱洗脳に関する議論を想起すること。自由意志というのは、「本来の自己」の領域を確定する行為と不可分ではないだろうか)

以上のことから、世界が決定論的であるかどうかは、自由意志があるかどうか、は別の問題であることがわかる。

自己によってつぎの自己の行動が決定されていること、自己の行動の原因が自己であるかぎりは、それは自由であるといいうる。また、つぎの自己の行動が未決定であったとしたら、それは、いいかえれば、自己によってすら決定されていないということであるから、それは自由ではない。

勿論、「自己」および「意志」が世界外に存在する、と仮定すれば、世界が決定論的であるかどうかは、自由意志の問題にまんまなるけれども、そういう神秘主義的な、神学的な想定をしない限り、自由意志の問題と決定論の問題はリンクしない。なぜなら、すくなくとも唯物論にたつかぎり、身体は意志にとって他者なのではなく、身体こそが魂だからである。

また仮に神秘主義的に自己意志は物的世界の因果系列外で決定されると想定した場合でも、依然として、自己意志がそれ以前の自己意志の状態によって一義的に決定されるということを「自由」と呼ぶかどうかという問題は残ると思われる。その意味でも、未確定状態であるということを自由と呼ぶのは支持されえない。

追記
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8075/jsbp030329.html