死について

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040608

ぼくがいい加減に理解しているレヴィナス的なハイデッガー風の死への先駆への批判をめぐって。大して独創性はない。たしかデリダとか。うろおぼえ。

ハイデッガー存在論では、存在は死者=亡霊と読み替えても意味が通じる。と、誰かが言っていた。

死への先駆とか決意性とか覚悟への批判としてすぐ思いつくのが、しかし、死を想像することに淫することによってこそ死が隠蔽されるということが常態なのではないか、ということを思いつく。死について考えることはむしろ快楽だ。

「先取り」という構えである限り、それは死のイメージでしかないんじゃないか。自己の死はイメージ以外であることはできず、リアリティでありうるのはむしろ他者の死ではないのか。日常の中にある死を回避しないというとき、その死とは、死の先取りされたイメージなのではなく、現在の只中にあるもののはずだ。

先取りされない死の現在的経験とはなんだろうか。そこで二つ思いつく。それはひとつは他者の死であり、ひとつは自らの衰亡である。

不眠、だるさ、歯痛、疲労、衰亡、消耗、不能、やりきれなさ、シジフォス的日常性の経験こそが、いきられた死の経験なのではないか。

他者の死もまた、身体としての自己を越えたネットワークとして私の自己を構成していた他者の消滅というかたちで、自己を損ない、壊す。それは想像的な他者の死や自己の死ではなく、リアルな他者の死による自己の損壊だろう。喪失感ではなく、自己の損壊としての他者の死の経験。

死の現在性とはひきのばされた疼痛をともなう衰滅の時間性だろうか。その意味で、その死のリアリティの隠蔽として自殺は了解されうるかもしれない。

死とは終わりなくだらだらと続く、しかし無視はできない疼痛。
きりのない泥沼。
しかし確実に悪くなっていく。
きりのなさ。

(このへん、どうも、ストルガツキイ兄弟的感覚)

生の有限性というとき、その外延はどこまでも曖昧なグレー・ゾーンではっきりとした境界はなく、ぐずぐずに崩れていく。そのようにして、人間は有限の存在者だ。

まあ、そこで、そうしたきりのなさに徹底してつきあう(ことでそうしたきりのなさを隠蔽しない)べきというレヴィナス的倫理はあまりにも息苦しいけど。

きりがないゆえにノンシャランであるほかない、ということもあって。

まとまらない。