たほいや倶楽部おきのる

増補改訂版。

もともとが設定に無理があるので時代考証的にはいろいろアレだけれども、まあこんな感じ。

ようするに、本当らしさよりもお話の内容のほうにばかり気が行ってしまう度し難い性分なのであった。そういう意味では向いてないのかもなあ。あと、出典、大辞林って忘れてたし。

実際、出題したやつは付け加えないように苦労したので、決して、ディティルを考えるのに苦労したわけではないのでした。

オキノル
ジュリオ・オキノル・ディ・スフォルツァ(Giulio Okinor di Sforza, 1268年 - 1355年)

 イタリア中世末期の政治家、画家、軍人、文筆家。ダンテ、マルコ・ポーロと同時代人。

 若くして十字軍に参加。

 (1284年 ドイツのハーメルンで少年少女の大量失踪事件が起こる。)

 アッコン(1291年 23歳)で捕虜となり身代金と交換で帰還の途上、船団が難破した為エーゲ海の小島ドニで現地の土豪に救われたが、捕虜であった間の背教の疑いをかけられ投獄される。

 このときの獄中手記が「第一コデックス」 不可知論的無神論の先駆的な例。

 「神がいようといまいと要はない。知ったことか」

 処刑の直前にルチチア女伯オクタヴィアの手によって脱獄に成功し当時マムルーク朝支配下のエジプトに出奔。一晩で意気投合し駆け落ちしたらしい。

 一説ではアシュラフ・ハリールに仕えた「盾を持つフランク人」の愛称で知られる人物が彼であるといわれるが学会での承認は得られていない。この人物は十字軍とモンゴル軍とを敵として戦い、赫々たる武勲をあげたことが記録に残っており、またつねにその妻も将として戦場に出て「猛虎」の名で恐れられたが、ある敗戦で彼女は戦死したらしく、それ以降彼の記録はアラビア語資料から失われる。

 「アリストテレス七講」はこの履歴不明の時期の作。しかしアリストテレスの解説としては相当にあやしげな代物である。

 「……(こうしてアリストテレスは)種々の目的の彼方に最高善を見出すのであるが、理性によってのみ知られるこうした幸福なるものを日々のうちに見出すものはそれこそ幸いであろう」

 数年間消息が途絶えた後、パドヴァ枢機卿コジモの賓客として再び記録に現れたときは(1302年 34歳)すでに歴戦の傭兵としてであった。コジモの失脚にともない再び前歴が問題にされたが、フランス王フィッリプ4世(端麗王)に招かれ仕官、その後の教皇庁との政争でよく期待にこたえた。

 「聖下、ほんの好奇心でお聞きするのですが、異端者に敗れるのはどのようなご気分で?」

 制作年代不明の絵画「機を織るペネロペイア」は一説には王妃ジャンヌをモデルにしたとされる。この時期のかれは傭兵としてよりも外交官、密偵としてイタリア諸都市に姿をあらわす。詳しい活動の内容はよくわかっていない。ヨハネ騎士団との関係が取りざたされる。また他方でテンプル騎士団残党との非難も存在した。

 1315年前後(45歳ごろ)には王の死とともに引退しローマ周辺に購入した地所で回想録の執筆に専念した。教皇庁からは当然忌まれたが無視。再び異端の疑いをかけられるがどういう手を使ったのかいつのまにか立ち消えに。

 「七人の浮かれ女のためのソネット」は晩年の抒情詩の傑作。回想録は虚構が多く後世多くの文学作品の素材となった。代表的なものとしてロスタン・クリュノーによる「東方綺譚」、アルノーの「イタリア戦記」などがある。民間伝承では美しい仙女を妻とした悪賢いほらふき老人として語られる。

 「追憶は東方の戦場に、忠誠は西方の王に、憧憬は古代の詩藻に、そして、情熱と生は陋巷に」

 小品「黒猫ルッジェロと白猫アスフォデル」が最後の作である。

 かれとテンプル騎士団との関係はいまなお不分明なものがあり回想録が語るがごとくイル・ハン朝を実際に訪れたのかにも疑問が多い。