意味の戦い

http://d.hatena.ne.jp/Gen/20040629#p1

普遍的であるがゆえに……

しばしば、とくに形式的で図式的「整理」をこととするタイプの、ぼくのような人物は、論争において、二つの対立する議論について、「きみたちのいっていることは用語の違いである」「両者を包括する理論的立場からは、それぞれ同じ体系の別の表現、あるいは部分体系として位置付けることができる」という。これは、なにが問題なのか。

このような調停は、形式的には、正しいことが多い。しかし、これは実は第三のどちらとも異なる体系を提案しているに過ぎない。なぜなら、第一の体系も包括的=普遍的であり第二の体系も、包括的=普遍的なのであるから、第三の体系の部分体系になった、普遍性・包括性を失った時点で、それはもはや本質的な部分で変質している。

もちろん、それはそれでかまわないわけで、単に、第三の体系において、第一、第二の体系が保存され、維持されているという主張が間違っているだけではある。

また、論争の意味のポリティクスの観点から言うと、まさしくある概念を、ある用語で呼ぶ、ということこそに、理論の本質的な部分がしばしば反映し、賭けられているのだから、そこで譲歩してしまった時点で、何か決定的なものが失われるのである。それはどういうことかというと、概念にとってその名称はけっして記号ではない。ある概念がある名称を得るということは、暗黙のうちに、その概念の名称となる語の日常的な意味と、その概念との間には、本質的な関係があるという主張を内包するからであり、そのような日常言語における意味と理論体系との関係というのは、形式的に理論を考察しているときにはたち現れないけれども、すくなくともポリティカルな意味では、きわめて重要なことなのであるし、理論が明示的に語っていない「空隙」を埋める場合、解釈を導くのはそうした語の意味だからである。

しかしこれは同時に微妙な問題をはらんでおり、馬鹿げたPC的な議論にもつながりかねない。おそらく、概念をあらわす語が特定の日常語の意味と関係を持つというとき、その関係の属性自体が、場の歴史性によってとことん左右されるのであり、個別にしか問われえない、というつまらない普通の落としどころに落ち着くのだろうとは思うけれど。

そういえば、

じっさい、相対主義的で普遍的な調停者というのは、しばしば「どっちでも同じなんだ、意味はおんなじだからね。ぼくらはたまたまこちらを選んでるだけなんだよ」という。しかしこの理念的相対性はけっして現実化することなく、つねに可能性として理念にとどまる。そして、あくまでも、「偶然的選択であり、どれでもいいんだけど、どれかでなきゃいけないから、これにしてる」という名目で、特定のものが、選択されつづける。この理念的、相対主義的可能性の多様性と、現実的、現勢的な絶対主義、固定性の著しい対比は何を意味するのか。

つまり次のようにいわれるわけである。

「どっちでもいい、価値が等しいのだから、無理に変える必要はない」

多様性と可変性を制限する為のきわめて有効な道具としての相対主義という逆説。