http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20040706
そうですね。思想や哲学の側での自浄作用というか、ニューエイジ、ニューサイエンス的なものとの決別が不十分だった、不十分である、という批判は十分妥当だと思います。八十年代的なポストモダンニューエイジの野合みたいなものをきちんと清算しろと。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20040706
追記。最初の稿の記述(腕時計云々)は書き直してあります。アップしてすぐだったので大丈夫かと思ったのですが、読まれた方は無用の手間をかけて申し訳ありません。記述を復活させようと思ったのですが、書き直したとき消えてしまったので。)

うーん、なんというか。

普遍性についてはそうですね。科学的知というのをどういう範囲でとらえるかにもよるわけで、たしかに近代は、世界との技術的合理性による関わりを極大化しましたが、いかなる時代でも、橋はかけないとまずいし、対象的な事実関係をきちんと認識することが生活する上で有利であるということは、ある普遍性を持つわけです。その意味で、魔術的医術も、実際上の生理学的効果がまったくなかったら、持続し得なかったと思うわけです。こういう意味での素朴で実践的な意味での技術的合理性、対象的知識を、科学的な知識という形で、具体的実践から切り離して徹底的に普遍性を追求するかたちで洗練し、理論化するということについていえば、まさしく近代という社会の選択であった、というべきなのだろうと思います。(ニュートンだったか誰であったか、「ここでも月の上でもただしい知識」というような言い方をしている、そういう理念的普遍性。)

モダンな占星術は、「当たる理由として伝統的に主張してきた、自然科学と背馳する神秘主義的説明はたなあげにしてもいい。しかし統計的に当たることは科学的に検証されている。そしてそのことは、ひるがえって、伝統的な神秘主義的説明、連関が、何か実際に現実について説明していることを意味している」と主張する傾向にあるわけですが、これ、どーなんでしょうね。ぼくはアイゼンク同様、アナウンス効果というか予言の自己実現というか、言われて育つからだと思うんですが。あとアイゼンク占星学者と紹介しているサイトがあって面白かったです。あの本は、占星学の権威付けに使われてしまっているところがあるみたいで、奇妙な感じです。

http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040706
科学では、ある哲学的前提を、科学的モデルを構成するときに、利用する場合があって、それは、科学にとっては、あくまでも仮説を構成する上で、いわば発見法的に利用したものに過ぎず、科学的モデルそのものは、その哲学的、価値的前提とは独立した、データの関数、パラメータの関係が実体であって、その意味での科学的モデルが同一であれば、それが構成されるときに前提されていた哲学的前提自体は、まずければ別のでもいいよ、的なものでしかないわけですが、しかし、そうしてえられた理論、知見が、科学の外部で理解されるとき、あるいは、科学者が科学者としてではなく、評論家的、あるいは啓蒙的に振舞っているとき、そうした哲学的前提まで、科学的知識として込みで提示してしまうことがある、ということじゃないかと思います。経済学の合理的個人の仮説なんかそうですよね。ひとは合理的に振舞わない。と、哲学的に批判しても実はポイントがずれている。そうではなくて、ひとは合理的に振舞わないのになぜデータは、合理的に振舞うという前提から作ったモデルに合致するのかを考えるべきなんです。合理的に振舞うことを仮定して作った科学的モデルは、実は必然的に合理的に振舞うという、モデルを作ったときに意識していた哲学的前提ときりはなしがたくむすばれているわけではない。まずいなら解釈、哲学的前提のほうをかえればいいわけです。データとあってるんだから、理論のほうを変える必要はない。(この例は、現在の経済学は、合理的に振舞わないことの効果もすでに折込済みで進展してるので、あくまでもたとえです。)あるいは、批判するなら、データとあっていない、あるいはデータの解釈が恣意的だ、というふうに、科学内在的に批判すべきなわけです。