あとで考えるためにメモ。

医療人類学
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/0-medanthin.html
生命倫理
http://www.lifestudies.org/jp/
批判理論
http://bunmei.hus.osaka-u.ac.jp/j/MISHIMA/tkt/tkt1.html

マルクスの物象化論、ウェーバーフランクフルト学派ときた批判理論のモチーフは、他方でハイデガー技術論(参考)なんかともからみつつ、科学の社会的インプリケーションとアプリケーションを問題化した。

知のフェイズと実践のフェイズが分離可能かという問いは、たしかに、技術、テクネーという地点で発火する。

やりかたをしればやりたくなるし、やりたいからやりかたをみつけたのだ。ということは、たしかに、否定できない。

知るべきことは何かというテーマ設定の問題。

勿論、知るべきことは何かということが完全に科学内在的には決定されえないとしても、そこで得られた知識が恣意的であるということは、全くない。

しかし、技術はおおむね必要であり、技術が有効であるためには、科学的知識が正確でなければならず、科学的知識が正確であるためには、科学的方法論を用いなければならない。この点は、つねに忘却できない。

技術はわれわれに利用可能な選択肢を限定し、提示する。ゆえに、われわれの選択は、そのかぎりで、あらかじめ、技術的な制約を、「何ができるか」だけではなく「なにを思いつくか」というレベルでもこうむる。実装例が選択肢としてあるかどうか、その分野についてたまたま調査したドキュメントがあるかどうか、ということは、われわれの「技術的、能力的制約」と同じくらいわれわれの選択肢を制約する「技術的、コスト的、発想的制約」だろう。ましてこうしたオリエンテーションは、多くの場合、無意識に働く。

われわれが何者であるかは、われわれが何に詳しいか、で分かる、のかもしれない。

技術が提示する選択肢は、実装の都合や、理論的簡潔性、能率性によって、つよくバイアスがかかる。それは、勿論、本質的には、科学や技術の責任ではなく、要求仕様で細かく指定をしなかった社会の側の問題だ、ともいえる。また、多くの場合、この技術的バイアスは有益であった。要求仕様が指定していない部分で、技術が、技術的都合で実装し、バイアスをかけるのは、ある意味当然のようにも思える。

しかし、前世紀の「啓蒙の弁証法」な経験や、エコロジー、バイオエシックスといった事象は、効率というバイアスだけでことをおこなうとまずい、ということを明らかにした。

単純に技術をいかに社会が統御するかという問題ではないのは、技術によって社会が無意識にオリエンテーションされる側面も強いからだ、ということなのだろうか。