分離の暴力

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注記。http://d.hatena.ne.jp/jituzon/20040710
も参考にさせていただきました。念のため、jituzonさんを隔離の論理の側に考えたりしてるわけではないです。実際、どういう方策がいいかは、かかって状況によると思う。
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イスラエルパレスチナ ―二国家解決策に向けたフェンス分離策を』
http://www.foreignaffairsj.co.jp/intro/0306Elizur.htm
こういうイスラエル側の認識があって、

『壁で分断された日常生活 もしあなただったら耐えられますか?』
http://www32.ocn.ne.jp/~ccp/news/aqusa5/040112hurui.html
パレスチナを蝕む「分離壁」』
http://palestine-heiwa.org/wall/doc/ebisawa_kabe.html
こういう現実がある。

で、
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/middle_east_peace_process/
国際司法裁判所イスラエル最高裁がともに違法の判決を出した。
『「分離フェンス」建設は国際法違反…国際司法裁判所
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040709-00000315-yom-int



ここで、思うことは、少しずれるかもしれないけれど、ある意味で、これは文化相対主義の壮大な戯画なんじゃないか、ということだ。棲み分けがゲットーの創出にほかならないこと、棲み分けがつねにそれを強制する暴力と不可分であること、隔離が、現状の固定化と、相互接触とそこからうまれる変化への絶対的な禁止であることをこれほど明確に物語っているものはない。

やや迂遠な理論的考察をしてみよう。

たとえば、隔離について考察するとき、公民権運動における人種分離政策、南アフリカアパルトヘイトを、今日の観点から、建前に反して「分離すれど平等」ではなかったからとして批判するのでは基本的な問題を取り逃がし、同様の保守派による論理展開を許すことになる。問題は分離、隔離が建前に反し平等ではなかったことにあるのではなく、隔離そのものの暴力を問わねばならない。そして隔離そのものの暴力性の「必然的」結果として、非対称性、不平等性がたち現れたとみるべきなのである。

そしてまさにそこから暴力が噴き出したのだ。

いかなる対立するグループも内的不均衡と変化を孕み持っている。ここで問題なのは文化や民族性に対する過度に本質主義的な思考だ。

このような相対主義的傾向は、文化的・集団的アイデンティティーを本質主義的に捉えすぎることによってもたらされる。このような文化相対主義に陥ることで、文化と異文化の交流は不可能と見なされ、集団は自文化の権利を主張する群集と化し、他文化に対する不寛容と自文化の「集団的目標」に対する無制限な寛容を帰結する可能性が高い。実際このような政策は、アメリカにおけるアファーマティヴ・アクションなどに見られるように諸文化相互の対立を必要以上に激化させる結果を招いている。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/ppsaj/pdf/journal/pdf1998/Manakano.pdf
html

悪人はかならず悪いことをするのだから悪いことをする前に捕まえるのは正しい、というような警官の倒錯が、ここでイスラエルの思考を支配している。長期化した紛争において、それは無理もない側面もないではないが、それが袋小路にしか通じていないのは明らかだろう。そう考える限り、「最終解決」は、どちらかがいなくなるという、圧倒的暴力と残酷を意味する方法しかないからだ。

このような文化相対主義にセットされている本質主義への批判は、文化的なプラスの交流へのイデアルな空想、現代思想が批判したはずの理想的コミュニケーション状況の想定という誤謬を意味するだろうか。

答えは否。アイデンティティ、性質は高度に状況依存的なものだ。接触によって両者が変容し、むしろ文化的コンテキストの動的なありようこそが、両者の本質を構成し、再生産するのだと語ることは、けっして、理性的「コミュニケーション」を想定することとは同じではない。むしろ、理性的コミュニケーションという想定には、対話を距離をおいて相対化し、意図どおりに統御する変わらない自己、という、本質主義的な「主体」の形而上学が潜んでいる。そのような冷静な距離の不確定さこそが、接触の肯定的意味なのである。

状況を隔離によって固定化する「調停的暴力」のもたらすストレスは、必然的に差異を固定化し、差異を対立へと変容させてしまう。タブーこそが妄想の根である。隔離は、「壁を接してなおも関係しつづけることを避けられない」状況においては少なくとも長期的にはマイナスであり、多くの場合、対立の激化を招く。隔離が有効なのは、単にあわなければ済む場合であり、それはほとんどの文化的紛争の場合、選択できない。紛争はどうしても共に生きざるを得ないからこそ起きるのである。

だがここで問題なのは、

「ポスト・エスニシティ」論のような本質主義的「文化」への批判が、実際にはマイノリティが自己肯定/認識/主張する際の「対抗的アイデンティティ」の凝集力のみを際限なく細分化させて抵抗の基盤を解体することに結果しかねない

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/aasja/archives/POR.htm

またこれは以下のニューライトの主張にどう向き合うかという話でもある。

多文化主義は各エスニシティの文化をできるだけ完全に維持しようとするが、それらの中には、レイシズム、女性蔑視、無知にもとづく頑迷でグロテスクな伝統もふくまれているはずだ。多文化主義は、そうした価値観の再生産までたすける危険をおかしかねない。文化は相互作用をつうじて発展していくのが不可避なはずなのに、そうした過程をさまたげようとする、退行的で静的な文化観に多文化主義は立っている。」(注2)

http://www.bekkoame.ne.jp/tw/hibana/h207_2.html

そこで着目することができるのは、ハイブリッド・アイデンティティの持ち主の主体だろう。ニューライトのような保守派は、文化相対主義的な本質主義を批判することにおいて正当であっても、決してハイブリッドなアイデンティティを肯定することはできない。そこには統合へと向かう同化主義的な理念と一方的に裁く視線が存在するのであり、あるべき文化多元主義とは、文化相対主義的な本質主義による、コミュニティ内部の抑圧、コミュニティ間の接触を禁じるフェンスの暴力を批判しながら、同時に、接触を普遍主義的な同化への統合として一元化し、あらかじめ方向付けようとする、文化的雑種性と文化的不確定性への攻撃にたいしても批判を向けなければならない。

実践的にはそれはどういうことか。まず、規範的な話から少し距離をおいて語れば、

1 隔離主義は対立の緩和には(少なくとも長期的には)役立たない。
a.それは恒常的な強制力を必要とし、その強制力への反発が蓄積する。
b.隔離を強制することによって文化的アイデンティティは固定化し、変化に対する保守的圧力が生じるが、このような文化的現状維持圧力は、その文化がその時点でもっていた文化的憎悪をも固定し維持し、多くの場合激化させる。
c.そのような憎悪を緩和すべく相対主義的尊重を受け入れさせることは、まさしく隔離そのものの効果としての相手に対する無知、接触の欠如によって、空疎な建前としてしか可能ではない。
d.隔離は必然的に現状のグループの間の社会的な、ステータスおよび権力における不均衡を固定化し、正当化するが、この事実はやはり集団的敵意をかきたてこそすれ、沈静化させることはない。

ということがあげられる。倫理的、規範的含意についていえば、マイノリティ・コミュニティによる内部のマイノリティへの抑圧という問題を避けてとおることはできない。被抑圧コミュニティにおいては、その内部でのマイノリティは、まさしく「団結を乱す」ものとして、正当に非難されるだろう。そしてじつはこの論理こそ、まさしく、このコミュニティ自体が、より上位のコミュニティによって抑圧された論理でもあったのである。ここには、ある種の救いのなさがある。

必要なのは、本質主義的な「憎悪」、ヘイトを再生産する構造を壊すことである。人間はつねに変化しており、自然な状態で、他者へ、固定的な憎悪を持ちつづけることはできない。いや、個人レベルではそういうことはありうるけれども、集団レベルで、憎悪を伝承し維持しつづけるためには、制度的なシステムが必要なのである。そしてそのようなヘイトを成り立たせるシステムを機能不全に追い込むことなしには、紛争の本質的解決は望めない。このような視点は本質主義的視点からは出てこない。イスラムユダヤが本質的に対立を孕んでいるわけではまったくない。政治的、社会的、イデオロギー的状況こそが、イスラムユダヤを、そのような宗教として不断に再生産しているのである。

実際、分離壁について思いを致しながら、イスラエルにおける、アシュケナージム(ドイツ・東欧系ユダヤ人)、セファルディーム(イベリア、北アフリカ、トルコ系ユダヤ人)、ミズラヒーム(中東系ユダヤ人)、イスラエル・アラブ、パレスチナ人という階層的差別の構造が憎悪と無関係だとは到底思えない。

……もちろん、緊急避難的に隔離や、「割ってはいること」が有効である局面はつねにかならず存在するが、それは長期化すればリスクと倫理的、政治的、不公正を拡大させていく。

最後に繰り返し、隔離壁への反対を。イスラエル国際司法裁判所の決定に強く反発していて、これだけで話がいい方向に進むようには見えない。

http://give-peace-a-chance.jp/wall/

http://plaza17.mbn.or.jp/%7ECCP/wall/wallf.html


追記
棲み分けを暴力的なものとの関係だけで語るのは行き過ぎだった。「割り当てる誰か」のいない、肯定的な棲み分けは当然考えられる。その場合、これは、相互主体的なもので、「隔離なき」相対的な濃度のグラデーションとして立ち現れるものでなければならない。ということは、

1 境界はつねに揺れ動いていること。
2 境界は隔離ゾーンではなく交流ゾーンであること。
3 割り当てる超越的なメタレベルの観察者がいないこと。

が要件。となると、これは、まあ、単純に生態学的な、本来の意味での棲み分けってことだな。