テロリスト・パーク

分離壁隔離壁について読んで思ったこと。

パレスチナをテロリストをテーマにしたテーマ・パーク、というか、サファリ・パークにしてしまえ。完全に密閉して、定期的に、勝てない程度の武器と食料その他必需品を投入する。そうすれば、強制しなくても勝手に、テロリストのパフォーマンスをしてくれる。そして、それをいたるところに配置したカメラでリアルタイムで報道する。特定のテロリスト家族をウォッチした番組なんて大人気だ。そして、週末には、すこし囲みを弱めるなどの演出。戦争あり、涙あり、政治あり、じつにすばらしいエンターテインメント。

壁を作るとはそういうことだ。実際、パレスチナ紛争は当初から、メディア・ウォーであった。

このように共同性の外部を、壁の内部に閉じ込めるとき、社会的な意味での外部・内部と、空間的、地理的内部・外部は反転する。壁の内側こそが外部になり、戸外こそが監視カメラの支配する「内部」となる。ストリート、街頭の力の弱まりは、そのストリートの屋内化と関係している。そしてそのことは、比例して、屋内の戸外的、「荒れ地」的特徴を増大させる。この「位相変換」「反転」がグローバルな政治を規制する原理となるとき、屋内に引きこもることはむしろ、部屋を出ることに似ている。室内でこそ、遠くのもの、異質なものと通信し、交わり、戸外でこそ、近くのものとのみ関係し、同質的でルーティンな関係を生きるという奇妙なねじれ。(もちろん、それはある限定された範囲での反転であり、反転していないトポスも多い。無数の屋内的な戸外があり、無数の戸外的な屋内があるが、もちろん同様に、無数の戸外的な戸外、無数の屋内的な屋内もある。ただ、かつてとことなり、いまやこの位相反転が無視できない規模で先進国の現実の中に位置をしめるようになったことも事実なのだ)