メモ 固有名の話
http://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/research/fragmentary/proper2.html
前から考えていたことをかなりクリアに書いてある。固有名はぼくはメンバーシップとしてとらえるべきだと思っていた。パースのインデックスをもってくればいいのか。
メンバーにつけた「番号」に意味はないが、メンバー登録は、確定記述というか、意味内容をもつ。誰もがメンバーになれるわけじゃない。アメリカという固有名詞に意味はないが、アメリカがその一員である類、普通名詞には意味内容がある。いいかえると、固有名詞は、「内的な意味」を持たないが、どの普通名詞に属するかという意味での「外的な意味」を持つ。この外的関係、インデックス的関係を迂回して、固有名詞もまた、意味内容を限定されている。
つまり、「アリストテレス」が、意味的限定をそれ自体は持たないというクリプキ的な議論では「アリストテレスはえらい哲学者だ」と「アリストテレスは大きな島だ」という言明では、聞いたひとはどうしても、同じアリストテレスについて語っていると考えることができない。(指示が固定的でない)ということを説明できないということである。
デリダはグラマトロジーで、類似の、反復可能性という言葉で、クリプキ的固有名論にひそむ、この単独性の神秘主義を批判した。つまり、限定の連鎖によって確定されない、属性記述に還元できない固有名詞が、しかし対象を同定できる、固定的に指示できるということから、対象には、属性すなわち関係に還元できない同一性を担保する神秘的な何か(魂?)があると考える思考を批判した。
「ジャックはだれにもかえられない」というとき、人名のシステムにおいて、「ユベールはだれにもかえられない」という文が可能であることが、どうしても必要だ。なぜなら、この言明が意味をなすのは、ジャックという主語が了解可能であるときであり、ジャックという主語が了解可能なのは、ユベールやマリアといった人名のシステムを参照することによってでしかない。
固有名詞は常に同種の他の固有名詞を持つ。そして、この同種性は、一般的な属性によって限定されている。固有名詞の意味の自由度とは、つまり、この可動範囲、集合の内部の任意の要素と指標的関係を持ちうるということだ。ただ、この自由度は、この集合の外部には延長されない。その場合、それは、同じ表記の別の固有名詞として解釈される。逆にいえば、考察すべきは、同じ表記の別の固有名詞というものが存在しえるとき、この二つの固有名詞の間の差異は何かということだったのではないか。