精神的に沈滞している。断片など。

「 きんいろの雪が惑星のすべての空にふりそそいでいる。エインはその光景を見るたびに綿毛を連想する。不意に雪雲の下におおきな影があらわれてゆっくりと拡大した。連絡船がついたらしい。かれは無意識に頬の傷をいじりながら、いったい今度はどんな連中がやってきたのだろうと考えていた。

「 目がさめると、あたしは見渡す限りの牛の中にいた。暢気な牛の鳴き声しか聞こえるものはなく、地平線まで白黒の乳牛の姿以外めぼしいものといえば、ところどころにのぞけている奇妙な監視塔のようなものだけ。

「 ジェシーがマシンガンの発射をとめたとき、最初に言ったのはある意味予想できなくもなかった言葉だった。「ああ、すっとした」と彼女はいったのだった。

「 すくなくとも十階建てのビルを体内に収められそうな巨大な鯨の死骸が、朝になってみるといつのまにか、海から一万キロも離れたその雑居ビルの屋上に「うちあげられ」ていたのは、確かに夢でなかった証拠に、その死骸は時をおかずして腐敗し始めたのだった。

 「語りえないことについては沈黙しなければならない」という引用を必然性もなくしている人を見るとそのひとへの評価がぼくのなかでかなり下がる。言語への不信というのは日本の思想的伝統においてはむしろ通俗的な主流派に属する。すくなくとも「論考」でWが、「語りえないこと」としてどういうものを考えていたか、そして、彼が少なくとも語りえないことは「示し」うるし、生きられ、おそらくは部分的には思考されもすると考えていたということも踏まえてほしい。W的な意味での語りえないこととは、イメージを成立させる働きはそれ自体はイメージではない、というような存在論的な問題領域、「世界がどうあるかではなく、世界があることが神秘」という話にかかわるんで、「いわくいいがたし」みたいな悟りきった坊主みたいな諦念と結びついて引用されがちなのは非常にいやな感じだ。

キルケゴールの反復概念が周期的にぼくの思考に戻ってきては反復する。別に洒落ではなく、単にそういうことがおきる、というだけのことだ。クラーゲスの「リズムの本質について」を読んで、やはり関係ある話なんだなあと思い、そうしてバフチンの祝祭についても同質の問題として考える。祝祭は反復され、反復する。それはひとまずは、ある特権的な時間を再演・表象するのだ、とみなしうる。単にそうであるかぎりでは、祝祭の全民衆性や両義性、革命性、解放は、ガス抜きの一種であるという批判は正しいし、そこでの近代的個人の溶解を、全体主義へと結びつけるのも理解できなくはない。しかし祝祭は再演・再現を超えて反復する。反復とは更新と再現の側面を持ち、キルケゴール的な反復の区別も同じ区別だろう。クラーゲスの拍子とリズムの区別においては、拍子とは外的に実際に、あるいは観念の上で付与される単位化であるのに対し、リズムとは対象の実際の生成を構成している内的な緩急の過程だ。リズム的な生成とは、その非均質で、正確には同じ場所に回帰しないという点において、更新の反復の一種として理解できる。

クレオール化と異種混淆と反復の関係。

マンガ。おもしろかった。
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