女が甘やかされていると語る人は(事実そうであるかどうかを論じる前にすでに)まさしくそう語ることでいくとおりかの意味で女性の権利のなにほどかの欠如を傍証している。甘やかされている人間は甘やかしている人間に物事の決定権を奪われている。また、甘やかすという認識は、女にはしかるべき身の程があるという観念を物語っているが、対照的に、男の身の程という観念はなぜか存在しない。ジェンダーフリーを人間の中性化として理解する人々は人間は男らしくあるか女らしくあるか、中途半端な両者の混合物になるかでしかありえないという哀れむべき想像力の貧困に蝕まれている。男らしさや女らしさや中性的というのは、どれもひとがそうであることができる「らしさ」の部分的領域に過ぎない。同様の想像力の貧困は国家主義への反対を汎人類主義として理解してしまうという短絡にも現れている。じっさいのところたいていの個人主義者の信条は世界市民主義のような抽象的な理想主義とは何の関係もない。共同体によって個性を基礎付けるという考え方への批判を、より大きな共同体によって個性を基礎付ける主義として理解してしまうというのは、自分の殻で他者をはかるということにほかならない。

ホーガンを読んでいるとSFとはべつのところでいかにも政治的に無邪気なところがいらいらしてくるが気にしても仕方がない。だが多分、アメリカではこれが普通の物の見方なのだろう。ガニメアンはいいひとすぎだが、ある意味、これは、クラークのオーバーロードのような超越的な存在の隠喩としての機能があるのだろう。理神論的なものがあるのだろうか。

otsuneさんのところにのせられていたが、裸人のひとのホームページは知っていたが、もうひとつは元総統のひとのページなのだろうか。カダフィー閣下のページはデータ飛んだままのようだけど。あとで外務委員長のひとのページを探しておこう。

もっとも私は九十年残党ではないのだが。

陰陽寮」富樫倫太郎 ストーリーテリングとしては非常にうまい。厚い本だがすぐ読める。しかし、このひとは言葉に対して扱いがあんまりだという気がする。微妙に感じ悪い。オリジナリティがないのはこの手のものでは別にマイナス点ではないのでそれはかまわない。とくに二巻の小説技術としての荒さは責められるべき。これは、はっきりいってもっとずっとうまく処理できるはずのところ。ひどい。

ビリー・ワイルダーバーグマンの「情婦」。確かに非常にいい映画だった。これは結末を話してはいけない。

http://d.hatena.ne.jp/kenloo/20040825#1093420318 日本語って(いや、中国語だろうか?)もともとは二倍のことを一倍、あるいは単に倍っていうんだよな。多分。だからむしろ三倍とか四倍という言い方に引かれて、二倍という言い方ができたんだろう。

江川達也は誰かが止めてあげるべきだ。

ギブスンの新作。うーん、面白かったんだろうか、よくわからない。保留。

しかし、白薔薇一族の学年のずれはどうやって調整するのだろうか。乃梨子次第ということになるのだろうけど。

そういえば映画「コンタクト」で、キリスト教があれほど問題になることが非キリスト教徒にはまったく理解できないと思ったことだった。日本人が宇宙人向けにメッセージを作ったら絶対宗教的内容はいれないだろうけど、というか思いつかないだろうけど、アメリカ人だったらいれたがるだろうな。