いまだ死を知らず、いずくんぞ生を知らん

いやなことをいうようだけど、時々、死ぬと死の苦しみが延々と終わりなく続くだけで、ちっとも死は眠りになんか似てなかった、ということになるんじゃないか、むしろ眠りなき覚醒に死は似ていて、生こそが眠りに似ているんじゃないか、と思うことがある。とはいえ、それもまた、憶測に過ぎない。

ブランショエピクロスの有名なひとは自らの死を死ぬことはできないということを想起して、主体の崩落とは、主体の行為ではない、それは主体のもつ本質的な受動性を意味するといい、この「さらされていること」の受動性を文学の中心に据えた、と適当に僕はイメージしている。といってもたいして読んでないのでこれはべつのひとを読んだ記憶が混入しているに違いない。

ストレンジラブ博士が愛しているのは、何なのだろうか。