死後の世界とは、私が死んだ後の彼岸のことではなく、私が死んだ後の此岸で続く日常のことだ。なぜなら、この世界のほかには彼岸など存在しないから。私は世界の存在に意味も目的も信じてはいないが、それゆえに何らかの虚無を感じるということは全くない。それ以外の理由ではあるのかもしれない。

かつて、ぼくは世界に意味を求めたことが、多分、ない。(というか普通、そんなもの、求めるものなんだろうか。)私の意味は私が作り上げるもので、その為の前提に世界自体から意味を借りてくることは必要ではない。そしてしかしその意味は決して恣意的に選ぶことができるようなものではない。だがそれを決断や賭けというと違うという気がする。

それはやはり制約された状況の中で、なかばは、他律的に強いられる運命だから。運命愛の思想と、自由への投棄の思想は別のことではないのではないかとい確信がぼくにはあるが、それはしかしぼくにとってやはり思弁にすぎないので、さして深刻なものでもない、という気もする。ぼくが何を選ぶかは、決して決められていない。と、いうか、決められていないものとしてしか内的には経験できない。いや、そうではなくて、それはやはり自分がやったことだという感覚を消すことはできない、ということだろうか。それは未確定で、まさしく、強いられた自由といってもいいのかもしれない。

あたかも何者かの手が私を動かしたかのようであって、自らの選択ではないと感じたとしても、それでもやはりそれは私にとって、私の選択としてたち現れるというか、跳ね返ってくるという気がする。しかし、そのような選択をする、すでにそういう自分であったということは選べない。それは発見されるほかない。私の意志は自由だが、私の意志がこのようであった、ということは運命だ。それはひとつのことの両面にすぎない。

選ぶことについて今日話すことがばかげて俗悪に聞こえるのは選択がすでに消費行動の問題で、生産の問題ではなくなってしまったかのようだからだ。本来ひとはむしろ何をすべきかと(もし仮に「べき」を問うというのであれば、の話だが、)問うべきなのに、いまやすべてのひとが、どれをすべきだろうかと問うている。「何」と「どれ」の間には無限の差異がある、とぼくには見える。

だがこの無限の差異はますます覆い隠されていく傾向を強めるだろう。すなわち、選択肢が多様化して細分化されることによって。しかし、そのような隠蔽は実際にはこの差異をむしろ際立たせるばかりだ。

かつて、ひとがまだ愚かという徳をもっていたころには、単なる消費者であることは恥であった。だが単なる消費者であることが恥じであるからといって、それは純粋な享受者、消尽者がいけないというわけではない。貴族であることは、すくなくともここでいうような意味で恥なのではない。単なる消費者は、貴族ではなく、つねに必然的に労働者であり、そして、それゆえに、単なる消費者であるということは必然的に労働者であることとの、異様な意識の分裂を意味するから、恥なのだ。

私は私の選択、いや意志において消費する。そしてそれゆえに労働する。そして、私の消費が私の選択であるからこそ、私の労働は、私の行為となる。私の消費が私の意志でも選択でもないのならば、それを支えるための私の労働もまた、何か隷属に似たものに成り下がる。いや、私は労働について話しているので、仕事について話しているのではない。私は今、私が私の欲望のために支払う苦痛について話しているので、職業とは誰にとってもいくらかは仕事でいくらかは労働であるに決まっている。

恥ずかしいことは、欲してもいないことのために苦痛に耐えることだ。単なる消費者であるということは、欲することにおいて他律的であることをうけいれることなのではないか。オタク的な知識はそれ自体のためにあるのではなく、自らの欲望を固有な、与えられていないものとして、みずから組織するためにあったはずなのではないだろうか。そのとき、問題なのはけっして他者との差異ではない。何を欲するかともはやひとは問うことなく、どれを欲するかと問う。欲望とは発見されるべき何かなのではないか。

どうでもいいがいつのまにかFSSのファンの間ではワスチャの話題一色らしかった。そういうところをぜんぜんまわっていないので気が付かなかった。プロムナード読み飛ばしてたからなあ。

星団統一後のアマテラス実はユーパンドラの演説のシーンを読み返してちょっと面白かった。このシーン、だいぶ昔のことだけど。

社会変革の前に個人の意識の変革とか、ライフスタイルの変化が、という主張にぜんぜん共感ができないので、学生運動とかの時代のそういうニューエイジ的なアレとかが出てくると苛ついて困る。仮に局所的に未来社会なり進歩的な状態なり、新しい意識なり人間関係とかそういったものを実現できたとして、それが、その場限り以上のものになる、どういう保証があるのか。そういうものが連鎖してひとつの大きな動きになるためには、構造の変化のほうが前提として必要とされるので、単純な量的な累積が構造を変化させることはない。というか、構造が変化しなければ、局所的な達成は分断されて、累積効果を生まないに決まっている。問題なのは、だから、再生産なのであって、状態をいかにして再生産させ、維持し、伝播させる仕組みを、ミクロであれつくることで、どれほどささやかでも、再生産能力、伝播能力を持たない達成は、どれほどすばらしくても一回的にとどまるということは明白だと思う。むしろフォーカスはだから伝播の仕組みを確立することのほうにあるべきなのだと思う。つまり、メディアと反復の主題だ。

ちゃあをとおして理想の君主像についての思索が描かれるという構想は燃える。

歴史学にとって、原因の解明は、学問の範囲内なのだろうか。何が起きたのか、は問題ない。しかし歴史的出来事は一回しか起きなかったことなので、ヒューム的な懐疑からいうと、「事件の継起」は記述できてもそこから「因果関係」を引き出せるかは微妙。自然科学が継起関係から因果関係を特定できるのは、条件を変えて実験しなおすことで、必要条件と十分条件を確定する、というやり方ができるから。このへんの話はおそらく、実験にかえて類例をもって推すということなんだと思うんだけど、これってどこまで厳密に押せる話なんだろうか。

とはいえ似た話は天文学もそうだな、という気はする。ただ、天文学の場合、スケールによって自然法則は変化しないという基本前提があるので、実験できる事象によって天文現象を解釈するから成り立っているわけだけど。それからいうと、社会心理学の知見を歴史学に応用とかできるんだろうか。ハリ・セルダンだけど。

女性の自立ものの小説なんかでいちばんタチが悪いのは、

キミのいうことはわかる。大賛成だ。しかし、現実は厳しい。きみはわかってないんだ。もう十分だよ。きみのせいじゃない。社会が遅れてるんだ。理想の追求は誰かもっと立派な人に任せよう。きみは個人的な幸せを追求するんだ。そのためには妥協しよう。

とかいうやつ。理解を示して、いうことには決して反対しない。そのうえで現実的には無理だといって、残念だが理想よりも妥協して幸福をとるべきだとかいう。こういうとき、現実が厳しいというのは往々にして真実だが、それは問題ではない。妥協したほうが幸福になれると思っている点、理想の追求が問題では全然なく、まさしく内的なぎりぎりの「必要」の問題だということがわかってない点がたちがわるい。

メイドさん
http://www45.tok2.com/home/maid/info.htm
経由 http://d.hatena.ne.jp/strange/20040930

あ、大学文芸部ウェブリングのときの……

メイドさんの神話学的分析をしたいところ。そしてもちろん、現代のメイド論は「ファティマ」についての考察を抜きにしては完全であることはできない。

関係ないけどマリア様と百合の関係
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/lily.html