ナイショ

http://www.elrosa.com/tisen/90/90183.html
証言ということをその関係で考えてみようと思ってこれを見つけた。内緒はもともと内証と書いた。検索すると意外といまでも内証と書く人もいるようだ。(と、書いて自分も前は内証と書いてたかもなあ、思い直す。ワープロ以降の時期、漢字については本当にいい加減だ。)仏教語では証は、証果で、さとりのことらしい。ここで、秘密と証言との関係がこの文脈で出てくるのかも。

すこし無理やりにデリダの論にこじつけをつづけてみると、「證」と逗留の「逗」は語源的に関係があるらしい。現代北京語でいうとzhengとdengでたしかに韻母が同じ。ああ、失敗。dengは登だった。逗はdou。訂正。まあ、これは、だからなんだ、という話だけれども。

あと、トリビア的だけども、症状の症って、本当は證の字で、證状とか、證候と書いたらしい。

それとはべつに、けっこうむかしに自分が、証言、ではなくて、「当事者ではなく目撃者について語ること」が重要なのだと考えていたことを思い出した。

ひとはある意味で、みずからの行いについても、なかばは目撃者なのかもしれない。そして、目撃者なしには、出来事は語られない。語られない出来事という出来事、あるいは、こういったほうがいいか、目撃者を持ちながら、いまだ語られない出来事の、目撃者にとっての存在の重さ、といおうか。

まるで、出来事が、いまだそれを私が語らないということについて、私に対して、負債の返還を要求しているような。いやされず、とどまっている、この、記憶という傷。

そうか、これは記憶の問題なのか。