メモ 儒学

格物致知は知るというのはどういうことか、という問題設定なんだろうなあ。いま、儒教をやるなら、大学をどう読むかってことだろう。たとえば、鬼神の来格の格として読む。格、閣、客。来るもの。知るということは物へといたることか、来ることか、きたすことか、しかし、何が?

知ることとゴーストの関係。

ここで文字を導入しても無理ではなさそうだなあ。知ることはゴーストが物に至ることだ。あるいは、知ることは物をとおしてゴーストが到来することだ。祖孝の文、作為なしに知はない、とか。

明徳を明らかにするという。なんで明が二つあるんだ? 明徳がそれ自体すでに明ならば、明らかにする必要はない。明らかにされることで明らかであるという意味で明徳と呼ばれるのだと理解しても、なんか気になる。徳と明徳はどういう関係にあるのか。明は、徳を限定しているのか、修飾しているのか。仁斎だったか徂徠だったか、ものすごくいいかげんだけど、明徳は徳の中でも君徳であるとかいってたような。

至善に止まる。儒教なら止で仏教なら住、とか? まあ、適当な話。ここは横井小楠では、止まらない、という話。というか、かれにあっては、つねに求めることによってしか、止まることはできない。その意味で動的概念。