キーワード無神論

http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20050114
いつも思うんですが、キーワードにぼくは保有権みたいなものを設定しようというのはよくわからなくて、編集履歴も完全匿名だったほうが本当はいいのだと思っている。だいたい完全匿名なら編集合戦が起きても問題にはならない。で、それはともかく、つまり、違和感があれば自分で編集するほうが早いのでは。

無神論で、無神論と神と関係がない思考の違いについて詳しく書いたのは、キリスト教徒というか一神教の人、そういう文化的世界の内部の人は、ぐぐれば非常に明らかだけど、明らかに、神の否定と神への憎悪や敵意を取り違えているし、無神論ということ自体が、「そっちの土俵」であることに気が付いていない、と思うから。これはさらっと書いてもわかりにくいことだとも思いました。不信心不信仰と、その特定の信仰と無縁の生活を送っていること、の違いさえしばしば、その特定の信仰の内部からの視点では見分けがつかない。

いまひとつ、ぼくの書き方がどういうひとを排除しているのかがよくわかりません。

で、なんというか、何が重要な違いであるかということそのものが最も重要な問題なのであって、それが共有された上での肯定否定はすでに、問題設定をした側の土俵の内部である、ということを指摘するのは重要であると考えた、ということです。

まあ、たしかにくどい書き方であるのは事実なんで気になる人が適当に書き直してください。ぼくとしては、無神論ということを記述するにあたって、その言葉が、有神論や悪魔信仰、本来の意味での無神論などがその内部である、一神教的な神やその存在不在が何らかの意味で重要であるという大前提を共有している世界の外部にある人に向けて、あたかもそのひとがその内部のひとであるかのように、あるいはこの大前提がなにか普遍的なものであるかのように、差し向けられ、相手を分類してしまう場面がしばしばある、ということを指摘することは、重要だと思った、ということです。しばしばそこには暴力性が付きまとうからです。たとえば信仰をもたないことは信仰の欠如ではない。信仰が付加されていない状態です。しかし、信仰が付加されていない状態を信仰の欠如と呼んだとたん、本来の十全性が損なわれているという意味が生じる。代補というやつです。言い換えると、一神教的な神を肯定的にせよ否定的にせよ重要なものとして受け止めること自体への違和感や無関心を無神論と呼んでしまうことは、ミスリードであるし、しかもそのミスリードのされかたは、どちらかというと、信仰の世界の側に回収されがちな方向へのミスリードなんじゃないか、ということです。