内田さんと無神論とナイーブさ

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050115/1105741648
http://d.hatena.ne.jp/dalmacija/20050115
最近、あんまり考えずに書いているので隙が多いものを書いているんだろうな、とは思っているのだけれど、それはそれとして、言い訳になるとも思えず、というか、そんなことはどうでもいいのであった。

もとい。

よくわからない、というのは納得できないという意味ではなくて、内田さんの言説に触れた文章がどういうふうにプラグマティックなある種の態度を強制する信仰を表明していることになるのか、というのが今ひとつわからなかったことがあり、もうひとつは、仮にそうだとして、それが無神論の議論に関するぼくのどういう態度と、どういうふうに矛盾するのかもよくわからなかったから。

理解できた、言説を批判するにあたっては効果と目的という発言の実践的なコンテキストを考慮すべきで、間違いにグラデーションを認めるべきという点についていうと、確かに、現在の理論的水準において素朴な信念をもつこと自体はそれ自体として当然責められるべき事ではなく、そんなこと言い出したらはっきりいって誰でもやってられないんであって、状況とか立場とかもろもろ勘案すべきで、議論に隙を見つけたからといって鬼の首でもとったかのように、間違いの指摘それ自体が目的化することは、純粋に学術的文脈でもない限り意味がないし過剰ですらある、というのはまったくそのとおりで、ぜんぜん異議はないのだけれども、この場合、内田さんの同性愛や変態性欲に関する政治的で批判的な営為一般へ反対する議論を批判することが目的であったので、素朴さを指摘すること、内田さんを非難することは、それ自体としてはどうでもいいことだったわけです。実際ぼくは内田さんのことについてほとんど知らないし、今回のある種のジェンダー研究への批判論がかれの議論にとって典型的なものなのか、ちょっとした逸脱であるのかのも知りません。目的は、丸山圭三郎ソシュール理解みたいな、未分化のカオスやかけがえのない単独性、それを規定=疎外してしまう記号性や一般性というような、ナイーブな対立図式が、今回のようなアイデンティティ・ポリティクスの問題自体を解消してしまう根拠としてしばしば用いられることにかんがみて、そういう正当化の通路を封じたい、ということなわけです。たとえば、個のかけがえのない単独性を集団やカテゴリーは疎外してしまうのだ、だから対抗的な集団、社会的アイデンティティもまた、かれらが対抗している支配的アイデンティティや集団と同じ穴の狢でしかない、というロジックは、いいかえれば政治ではどうしたって取り逃がされ救えないものがあるのだから、政治的努力には意味がない、というロジックですが、これは一面では真実であるけれども、しかし、そこには明らかに五十歩と百歩の違いがあり、(たとえば誰もが指摘しているように、誰もが欲望の観点では本質的には同性愛者であるといえるし、その認識はたしかに重要だけれども、しかし、現実に同性愛者にカテゴリー化された人々とそうでない人の社会的生活は異なるものであるし、自ら同性愛者と自認する人とそうでない人には現に違いがある。現実に社会的生活が異なれば、内面的で孤独な精神の生活も異ならざるを得ない、というような、五十歩と百歩の違い)それこそがこの場合重要なのだ、ということが無視される、わけです。(あるいは「フーコーによれば権力に外部はないのだから具体的な「権力」への批判は意味がない」というような議論の問題点)そういう意味で、こうした議論の根拠として用いられている限りにおいて、この種の素朴さを非難したわけで、この種の素朴さ一般を批判したわけでも、内田さんの思想一般(どういうものなのかよく知らないのですが)を批判したわけでもぜんぜんありません。ということで、答えになっているでしょうか。