昼見る夢は幻、夜見る夢こそ真
自由の担保は忘却だ。夜こそが空間を構成している。
忘れること、あとをくらませること、ブレヒト的権利。
高度情報化社会の不幸は、履歴から誰もが逃れられなくなることだ。いずれ履歴に人は取り殺されるに違いない。
履歴に人が拘束されるということは失敗できなくなるということであり、失敗できなくなるということは、すなわち、振る舞いが、別に政治的な意味ではなく普通の意味で、保守的になるということだ。
どーよ、それ。
「虎よ!、虎よ!」の冒頭の記述くらい無茶な時代を望んでいるわけでは決してないが。
劇団ひとりはやはりすごい芸人だと思う。
アニメ版AIRの話など一言も聞きたくない。
夢を見ない権利。
世界は愛撫によって構成されている。
壁と壁の間、見られない場所、記録されない行為、それこそが今後の価値ある財産となる。
貧者とは、徹底的に見られ、隠れることができず、しかも聞き届けられないもののことだ。
目と耳の奇妙な対称性。
意識において見えず、透明人間であり、無意識において隠れることができず、動物である。
見えているからこそ無視することができ、見えていることを意識していないからこそ無視しきることができる。
もう革命を誰も信じていないのだろうか。
最近の極左という言葉の本来の語義からの逸脱は目に余る。自由主義者が赤と呼ばれだしたのと同じでじつにろくでもない。
人間とは話しあえる相手のことだ。だから、動物も、幾分かは人間である。ここには矛盾はない。
最近の言説にはどうも反対者を意見の異なる善意の人としてではなく、悪意の人としてすぐに描き出す傾向を感じる。想像力のかけらもないと思う。つまり自分がそのような主張をもしするとしたらそれはそんなことは(とても信じられないから)わざと悪意からであろう、と想像しているわけだ。ここでは徹頭徹尾、相手を自分を基準にしてはかっていて、真の意味での想像力の欠如がある。情報がない部分に関しては、相応の物的根拠と理性的推論を相手がしているのだ、と想定すべきである。そのうえで、それを確認し、提出を求め、出された時点で、それを非難すべきで、未提出の部分について、悪意の推定をするのは、まちがっている。
正義とは悲鳴である。
過去の繰り返されうる側面と、繰り返されないものとしての側面という区別についてはかつて述べた。繰り返し、反復とは、過去と現在が交感するコミュニオンの虹である。
正義は悲鳴である。根拠ではない。
根拠としての正義を否定するのは時にただしい。悲鳴を無視するのはつねにただしくない。
選択問題。
誰を助けませんか? という問いはたぶん不可避であり、それははなはだブルーな真実である。
幸福と正義の間に関係はない。正義は悲惨としか関係を持たない。悲惨でないことは幸福だろうか。悲惨は不幸だろうか。この等式は……かならずしも自明でないように見える。
しあわせという概念は相変わらずよくわからない。幸せとは、経験ではなく、本質的に他称なのかもしれない。しあわせだとおもわれることが幸せの定義である。あるいは、あこがれられる状態が幸せである、ということなのかもしれない。文法的に。そう考えると、幸福を感じることと幸福であることは、どうしてもぼくには別の事態のように思える、という感覚が説明できる。
世界は滅びてもいい。しかし、滅びを望んではならない。
昼見る夢は恐怖、夜見る夢は悔恨。
「健康だからという理由で休暇をとる」(「カウガール・ブルース」)
自然は真空を嫌うというのと同じ理由で、存在を嫌うとも言える。
なにしろ、すべては滅ぶのだから。
(だから、永遠回帰は救済のリアリティでありえたのだ。
何もかもは、時のなかに失われはしないのだ、と。)