あの戦争の肯定論を

きちんと批判するには、どうやらいわゆる「ABCD包囲網」にかんしてきちんとした議論を提供することが必要らしい。しかしあれが中国侵略への経済制裁であったなら、とりあえず中国侵略の是非を論じるだけでよさそうだけど、どうなんだろう。封鎖の動機が権益の対立であったとしても、封鎖の建前が中国侵略の不正であったなら、それに反駁できない限り、「本当の動機」をもって封鎖を不当とみなすのは筋違いだろう。人口過剰による植民地獲得の正当化という議論に関しては、一般的に当時の植民地主義一般について議論が成り立ちそうだけど、そのへんどうなのか。単純に考えれば、過剰人口や流出人口を、本国政府が支配する必要や正当性があるという議論はおかしい。ドイツの生存圏の議論とか。アウタルキーとか。あとインドネシアなどの独立派と日本軍の利害の複雑な交錯はたしかに単純ではない。しかし、日本軍は基本的には独立派と提携、あるいは利用したのであって、できれば支配しつづけるつもりであったことは疑いないのだから、独立の達成には、むしろ、「日本が負けた」ということが必要条件だったとはいえる。敗戦前に独立が約束された場合でも、明らかに、背景に劣勢が明らかになったことがある。日本軍が優勢の状態で講和に持ち込むことが可能であったとして、その場合、欧米を駆逐したあとのアジア諸国に、市民的自由、集会結社の自由を与えただろうか、あるいは、日本人を副官政治のような形で属国として支配するような以外の、実質的な独立を与えただろうか、という問いは、ぼくには、非常に疑わしく見える。二十年とかたったあとなら話は別だろうが、それはもはやぜんぜん別の話だろう。自己統治能力をそなえるまで、かわって統治する、という論理を持ち出すならば、まさしく典型的な植民地主義的言説だろう。

追記

じつをいえばぼくは、あの戦争を、自分がしたことのような意味で、後悔し反省すべきだとは思わない。しかし、目の前で今誰かがそういうことをしようとしたら非難し、とめようとすべきだ、という意味では否定すべきだと考える。で、それでいいのではないか。