キーワードでネタをやること、サークルクラッシャー

http://d.hatena.ne.jp/natsu-k/comment?date=20050502#c

普遍的な話に過ぎないという話はしてないです。それがカタストロフィに陥るのは奇妙に恋愛の対象が内部に閉じるからではないか、というふうに、キーワードでいわれているような特殊な場合についての話です。

で、これもちょっと誤解があるかと思うのですが、otsuneさんとotokinokiのさんの恐らく二人のあいだでネタとして了解しているとか、ネタとして話すということがどうこうということではなく、野暮とかいうものいいもそうなんですが。

ネタをネタとして成立させるためには、コンテキストと作者がいないといけません。つまり、ネタですよね、といって、うん、ネタだよ、とこたえるひとが理念的にいることと、それがネタとして通用する場所を越えて波及しないようにコントロールすることがこれもともかく理念的に可能じゃないといけません。キーワードの記述という形式は、どっちもそなわってません。意図した意味で使われているかも、意図を誰に確認すればいいのかも、キーワードのような、誰のものでもない文章では決定不可能です。

実際、あの説明文は「誰の」文章で、あの文章の意図とは、「誰の」意図のことで、あの言葉の「正しい」意味とは誰にとって「正しい」ということですか。最初に書いた人の意図というのは、誰でも編集できるwiki的なものでは、別に全然特権的な立ち位置にはないですよ。

ですから、込み入ったネタのような、文面に表れていない込み入った了解事項があって初めてネタとして機能する、そうであってはじめて、批判されるような難点やバイアスを回避できる、そういうものは、うまくいかない、ということです。

もちろん、そういうことを、普通の作者がいる文章についてもいうのはいいすぎです。そういう場合は作者がネタだというとか、作者がそもそも流通するコンテキストをコントロールするとかすればいいわけですから。しかしキーワードはそういうことができないですし、実際に、お二方のように取らなかった人のほうが、見て回った限りでは圧倒的に多数派だったわけで、意図としてはそうではなかった、といわれても、それは最初の意図はそうかもしれませんね、というしかないです。

同じ文章を、個人に属する文章として自分の名の下に書かれていれば、少なくとも追記すれば済む話でした。その場合には言葉の意味は(少なくともその文章の中では)そのひとの定義したものですから。野暮云々というのもそうで、野暮かどうかというのは、あえて言わないかどうかの問題で、そもそも本当の意味が共有されていない場合には野暮かどうかの問題ではないですよ。本当の意味が共有されたうえで、それをあえて口にするかどうかが、野暮かどうか、という問題なんですから。ネタをやるためには、楽屋裏で、ネタではないコミュニケーションが、前提として真顔で成立している必要があります。

ですから、これは全然、読解力の問題なんかではない、と思います。