おこたえ しかし長い

「どうやっても原因があいつだというニュアンスを払拭することは不可能だと考えるので」の理由は、ジャーゴンでいえば有徴化の問題、ということです。

つまり、サークル・クラッシュがおきたとする。で、何が、原因・特別な事態・区別するしるしだろうか、と考える。その結果、名前が付けられるわけです。そのとき、サークル・クラッシャーと名づけた。何故か。この時点では、その言葉の使われ方はまだ問うてません。そこに着目して名づけたという名づけの行為について、考えています。すると、「特異性・名づけて際立たせるべき変わった点」が、女性の側にある、と考えたからです。いいかえれば、この名づけの行為は、必然的に、暗黙裡に「問題のない日常に対して、変容をもたらした特殊な存在」というスキームを強います。で、この認識は、この言葉を使って、サークルクラッシュを考える限り、付きまといます。何故か。

それはサークルクラッシュを、サークルクラッシャーについて考えるという形で考えることになるからです。サークルクラッシュサークルクラッシャーについて考えるという視点から考えている限り、明らかにされるのは、サークルクラッシャーの性質であって、クラッシーの性質ではないわけです。いま、たしかにわたしたちは、サークルクラッシャーだけに責任をおわせずに、サークルクラッシュの原因を考えることができていますが、それは、まさしく、サークルクラッシャーについて考えるという形式でサークルクラッシュを論じていないからでしょう。

これは、別の例で考えればわかりやすいと思います。地震が起きたとする。で、何らかの信仰をもっていたひとたちが、地震にあったひとのことを震えものクェイカーとでも名づけたとします。(アーミッシュのひとごめんなさい追記。ああ、余計なことを。クェーカーとアーミッシュは別宗派でした。勘違い。訂正。)、で、クェイカーについて論じるという形で地震のことについていくら考えても、そこから地震の原因についてのただしい認識にたどり着くのはきわめて困難です。もちろん、神戸のように人災的側面について論じることには意味がある。しかし、それは、またべつのことであって、地震の原因を明らかにすることにはならない。

もっと端的な例を出すと、貧乏人というのは貧乏な人のことです。しかし、貧乏人についてかんがえるという形で貧乏について考える限り、わたしたちは、貧乏属性というものを見出す議論にたどり着いてしまう。それは、貧乏について、貧乏人ついて形式をとるかぎり、避けられない制約です。なるほど、貧乏人には貧乏属性とでも称すべきものがあるという議論も成り立たないわけではない。実際、そういう議論をする保守派の議論もないわけではありませんが、基本的には社会的スタートラインと運の要素が大きいわけです。また観測される貧乏人特有の属性というのは、むしろ貧乏の結果であることのほうが多い。また、現在の社会では貧乏の原因になる属性でも、それ自体が貧乏に必然的に結びつく属性ではない場合もある。要するに、こうした本人の内的属性を原因とするバイアスがなぜ生じてくるか、というと、まさしく、貧乏を、貧乏人についてあきらかにするというスキームで考えてしまったからです。

もちろん、サークルクラッシュの場合、サークルの恋愛脆弱性だけでなく、公平にいえば、女性の側にも、責任がある場合も多いでしょう。しかし、現象面で引き金をひくことになる、というのは、主要原因であるという事ではない。わけです。しかし、なまじ、女性の側の原因が、地震の場合とちがって全然ないわけではないだけに、真の原因である、クラッシュサークルの恋愛脆弱性という問題は隠蔽されてしまう。あるいは二次的な問題に格下げされる。

で、つぎに、

また「恋愛脆弱性」に対する処置としてアクションを起こすと有効だと思うことは何かありますか? 仮に「サークルの恋愛脆弱性問題」をアピールするときに、ホイチョイプロダクションのようなアイロニー手法や「かまやつ女だめんず・負け犬女・干物女」ではなくて日刊イトイ新聞のような手法で、言葉のインターフェースに糖衣をかぶせたらアクションとして効果が高かったかもしれないと思いますか?

えーと、現場でそういう事態に立ち会ったときの対策という話でしょうか。具体的にその場にいるときの対処の方法なんて、一般論はないと思います。しいていえば、公私混同という点を問題にする、ほかの異性や、ほかの異性と知り合う機会を関係者に提供する、でしょうか。恋愛でもめること自体は問題はない、というか正しい。恋愛は人生の花ですし。色事でどんなにもめようと、ほかの人間関係に波及しないのであれば、なにをやってもただしいと思いますよ。ひどくふって自殺しようと別に誰が悪いわけでもない。恋愛外の人間関係に波及させる野暮さが問題なわけで、しかし、その野暮さを矯正する方法は一律にはない。

ではなぜ個別の個人の野暮さの問題ではなく、いちおうは「サークルの」属性、すなわち恋愛脆弱性として語りうるかというと、そうした野暮さを誘発する人間関係の性質、つまりホモソーシャルなところがある、という環境原因の側面があるわけですよね。それについてはむしろ予防論組織論ですが、公私混同をいましめる雰囲気をつくる、人間関係を閉じずサークル外との交流・関係を密接にするとか、単純に性別比率に気をつけるとか、そういう話ではないかと。まあ、理想論というか、いちばん根源的なのは、つきあうことは相手を所有することではないという観念をもつことですが。でもまあ、一般論はないでしょう。しかし、いちばんのスジ論を言えば、サークルで恋愛するより、活動しろよ! ということでしょうか。本気で活動してれば、その活動のために恋愛に淡白になると思うんですけどね。まあ、恋愛目的のサークルとかならいっても無駄ですが。しかし、これって、当事者以外が心配するようなことではないと思います。いや、やっていけないというわけではないでしょうが、非常にあいまいな一般論しか出てこないだろうと、結局は対策の有効性はそれぞれの当事者のパーソナリティに依存するわけですから。

で、問題をアピールするうまい方法、という点ですが、うーん、このへんの質問の意図がよくわからないのですが、揉め事をどうすれば避けられたか、ということでしょうか。もうちょっと注意書きが明確だったらとか、そういうことはいえるかもしれませんが。ぼくは、キーワード自体やその記述に反対したわけではないので、わかりません。この言葉の無神経な使用に対する批判的な注記つきで登録されたのであれば、それでよかったのではないかと思いますが、やはり、これは一般論として、ベタに「引用」ではなく「使用」したら攻撃的となる用語を登録すればもめるのは、注記つきでもやはりむずかしいと思います。たとえばバカということばをいまぼくは書きましたが、いまこれは罵倒語として「使用」したわけではなく言語論の言い方をすれば「引用」したわけです。キーワードは原則として「引用」の範疇なので、問題はないはずですが、それでも、問題を感じる人は、どうやってもあらわれるでしょう。その都度、論駁するしかないのでは。

ユーモラスだったりアイロニカルだったりすればよかったか、というと、そういう問題ではないでしょう。なぜなら、これは夏一葉さんが書いておられたように、この言葉は他称であって自称の言葉ではないので、自虐であるという主張は無理があるからです。サークルクラッシュというような言葉なら、自虐であるという主張は無理がありませんが、たとえば、毛唐という言葉は西洋人を揶揄するような自分たちを揶揄する自虐ネタであるといわれても説得力がないでしょう。もちろん、じっさいにはまさしく毛唐という言葉はあまりに大時代過ぎて、まさしくそういうネタ的に使われることも多いわけですが、しかしそれが、一定の文脈抜きでいえるかというと、いえないわけです。まして、ネタ的使用ですよというなんらかの前振りぬきでつかえば、やはりベタに受け取られるでしょうし、それは、けっして「間違い」ではない。その言葉の使用者の間ではそういう共通了解があったとしても、まさしくアピールするということは、そういう共通了解のないひとにたいして語ることなわけですから。ですから、この言葉は、ベタにつかわれはしないんだ、ネタ的に使われるし、その場合、責任論になるわけじゃないんだ、というのは、エクスキューズとしては無効だと思うわけです。なぜなら、アピールすることで、この言葉は一般的に使われるようになる。そうすると、ある種のリテラシー・共通了解によって抑止されていたその言葉が本来持っている攻撃的なニュアンスで使われてしまう、というのは、必然でしょう。現に、中二病なんかでも、もともとの使用者以外は、やはり揶揄的につかいはじめたわけです。

ですから、キーワード登録を擁護する戦略としては、この言葉は問題がない用語だよ、ぼくらはそんな意味で使ってるわけじゃないよ、ではなく、この言葉は問題があるけどぼくらは注意してそういう意味にはならないように使ってるよ、そして、一般的にこの言葉をアピールすることであやうい用法でつかうひとがでる危険性はあるけど、ちゃんと注記はしてるし、そういう危険性は、キーワードを削除する理由にはならないよ、といったほうがよかったのでは、というあたりです。もちろん、ぼくはすでにいったように、ネタ的に使う共通了解が成立する場でも、「貧乏と貧乏人」と同種の、見え方・捕らえ方がゆがむ、すくなくともそうなるのを防止するには、かなり強力なリテラシーと意識的努力が要るようになる、という問題点はやはり避けられないとは思っているわけですが、それでも、そのことから、この言葉について考えたり、キーワードとして登録することがいけないということにはならない、と考えている、ということです。